2015年7月29日水曜日
●水曜日の一句〔矢野玲奈〕関悦史
関悦史
これといふ宝石もなく香水を 矢野玲奈
宝石であれ何であれ、いかなる値段のものでも気に入ればいつでも買える。そんなことは当たり前のことで、ことさらの気負いもなく、いつものように宝石店におもむき、たまたま気に入る品もなかったので、今日は止めておくわ、また今度などと言い、店員に深々とお辞儀されながら、あっさりと宝石に興味の矛先を変え、そちらを買う。
最近の俳句であまり見かけることのない、セレブというかバブルというか、そういうものをぬけぬけと前面に押し出した句で、悪役ぶりが面白い。
それがさほど嫌味になっていないのは、あきらかに過剰に取り澄ましてみせ、ふざけている「これといふ~」の興味なさげな演技的な語り口と、結局、宝石に比べれば一般的に安価なのであろう香水に落ちついてしまうという二点のためなのだが、香水壜というのもフェティシズムをくすぐるきらびやかな造形の小物であり、価格を離れて、見た目のきれいさだけからいえば宝石の代替物に充分なりうるものだ。
経済的価値に何ら縛られることなく、宝石と香水を値段の差などないかのように扱い、気に入ったものへと瞬時に飛び移ってしまう無邪気さを発揮する。その軽やかさの前提として、まず経済力の誇示がなされているところにこの句の滑稽味がある。
もっとも、宝石や香水をこのように物品の外観からのみとらえるのは主に男性の目であって、女性からすればどちらも「それを身に着けて、より魅惑的になった自分」のイメージをこそ買うものということになるのだろう。
そうした目で見ると、この語り手は高価な宝石から安価な香水へという転換だけではなく、身の一端をきらりと光らせる視覚的魅惑を増した自分から、匂いとして周囲に発散される嗅覚的魅惑を増した自分へと飛び移っているともいえる。その全てをアンニュイが覆う(くり返すが、その全てが演技化されているので可笑しみが出てくる)。いずれにせよ都市空間のなかで初めて成り立つ話である。
句集全体としても山川草木の類はあまり目立たないのだが、懐胎、育児の場面になると途端に《胎の子と白詰草の野に座る》《花菜風日毎に変はる嬰の顔》と草木が出現してしまう。この辺りは、吾子俳句特有の重力圏に引き込まれてしまったとの見方もできるが、句集のなかで見ると、宝石から香水に飛び移るように、都市から草木に飛び移ってしまう自在さをも作者が意識化できているようにも思え、じっさいこの二句にしても思いのほか自己愛のべたつきはない。人も都市も物品も自然も、この作者からすると等距離にあるようだ。
句集『森を離れて』(2015.7 角川書店)所収。
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