2015年7月14日火曜日

〔ためしがき〕 「高校生らしい俳句」 福田若之

〔ためしがき〕
「高校生らしい俳句」

福田若之


「高校生らしい俳句」、と人は言う。分かるようで分からない言葉だ。たとえば、「高校生らしい遊び」とか「高校生らしい制服の着こなし」とかいうのであれば、納得はできないにしても、まあ何を言いたいのか理解できないこともない。けれど、「高校生らしい俳句」となると、それはいったいどんなものなのか。俳句が「高校生らしい」ということが良いことかどうかという問題を考える前に、それはそもそもどういうことなのかを考えなければいけないだろう。

「高校生らしい俳句」という言葉は、第一に、「過去の高校生の俳句の数々を思わせる俳句」という意味に解釈できる。だが、「高校生らしい俳句」という言葉をこのように解釈するとして、それらの過去の高校生の俳句のイメージは、いったいいつ、どこで、どんなふうに確立されたものなのだろうか。

おそらく、それを確立したのは、たとえば俳句甲子園という場であり、数々の高校生のための俳句賞であっただろう。そうでなければ、誰が、どうやって、イメージを確立するのに充分な数の高校生の俳句に触れることができただろうか。だから、この見方からすれば、「高校生らしい俳句」というのは過去の高校生の俳句が読み手に与えた印象を再生産した俳句にほかならない。いま俳句甲子園において「高校生らしい俳句」と呼ばれているものは、実際には、たとえば神野紗希のかつての句風に似ているというだけのものかもしれないのだ。それが「高校生らしい俳句」と呼ばれるとすれば、それは決して自然なことではなく、歴史的なことに過ぎない。

この視点から状況を捉え直してみれば、たとえば俳句甲子園という場において「高校生らしい俳句」が評価され奨励されることは、俳句甲子園がみずからの手で歴史的に作り出した価値に固執する制度的な場として機能していることを意味する。だが、このことは、すなわち、新しい価値を作り出す力がこの俳句甲子園という場から損われつつあるということだ。歴史的に作られた価値を単純に持ち上げて良しとしてしまうなら、過去は未来を作り出す力を失ってしまう。

未来というのは別に俳句の未来のことではない。いま僕が問題にしているのは、あくまでも俳句甲子園の未来のことだ。俳句甲子園はあくまでも国語教育の一環にすぎないのだとすれば、なるほど参加している高校生にただちに俳句界の未来を背負わせようとするのはあまりに性急なことだろう。しかし、その場合でも、俳句甲子園は、それが文化的に意義のある催しでありつづけるために、新しい価値を生み出す力をつねに必要としているのではないだろうか。ここで未来というのは、そうした未来のことだ。

そして、ここでの問題は、俳句甲子園の過去を守ろうとすることが俳句甲子園の未来を危険にさらすということだ。「高校生らしい俳句」という紋切り型は、この危機的な状況を推し進める強い力を持っている。逆に言えば、俳句全体の未来にとってはたいした脅威ではないだろう。だから、この紋切り型をどうにかしないといけないと人が思うとすれば、それは俳句のためにではなく、俳句甲子園のためにであるはずだ。

だが、このとき、この紋切り型が当の高校生たちをどれほど抑圧するかを指摘するだけでは充分ではない。それだけでは、「高校生らしい俳句」という紋切り型が保持しようする俳句甲子園のありかたを変えていくことはできないだろう。その場合、仮にこの言葉を抑え込むことができたとしても、別のより巧妙な紋切り型が高校生たちを同じように抑圧しつづけることになる。たとえば、今度は「健康的な俳句」という紋切り型が「高校生らしい俳句」という紋切り型に代わって抑圧的に働くかもしれない。それは、全然健康的ではない。

だから、ただ言葉が良くないという指摘をするのではなく、「高校生らしい俳句」という言葉をこれまでの俳句甲子園をはるかに越え出るような仕方で再定義することを通じて、場のありかたそのものに揺さぶりをかける必要がある。

そこで、ここではあえて「高校生らしい俳句」という言葉がもつ肯定的な可能性をこの言葉それ自体から引き出してみようと思う。「高校生らしい俳句」という言葉を俳句甲子園のこれまでの歴史を越え出るかたちで再定義することを通じて、従来の判断基準を揺るがさなければ、俳句甲子園はこの紋切り型が顕在化している問題を発展的に解消することができない。だから、そのようにして改めて「高校生らしい俳句」という言葉としっかり向き合ってみることにしよう。そのとき、この言葉はどのように読みうるだろうか。

まず第一に、ある俳句が「高校生らしい」というのは、その句が〈高校生〉なるもののイメージを読み手に提示するということだと考えられる。では、そのとき、俳句の何が〈高校生〉を髣髴とさせるのだろうか。おそらく、句の語り手が〈高校生〉を髣髴とさせるということだ。

しかし、それだけでは「高校生らしい」とはいえない。俳句が「高校生らしい」ためには、第二に、その句の語り手が高校生だということがはっきり分かるということが必要になる。「高校生らしい俳句」という表現は、語り手が高校生であることがはっきりしている俳句についてしか用いることができない。「らしい」という言葉が示唆しているのは、あるものが別のものに似ているということではなく、あるものがそれとしてあるということだ。「らしい」とは、類似性ではなく同一性なのである。高校生ではないかもしれない語り手の俳句が〈高校生〉を想像させるとき、その俳句は「高校生らしい俳句」ではなく、「高校生っぽい俳句」、「高校生のような俳句」あるいは「高校生みたいな俳句」などといった言葉で呼ばれるに違いない。

整理すると、「高校生らしい俳句」というのは、一句の語り手が高校生であることを言葉で示唆しながら、しかも同時に、これこそ〈高校生〉の語りだと確信させるような文体で書かれた俳句だということになる。

これは、俳句という形式においてはほとんど超絶技巧といっていい。俳句らしい俳句のほうがずっと簡単だと思う。おそらく、「ふつう」の高校生(今日、「ふつう」の高校生はそもそも俳句なんて興味もないのではないだろうか)が俳句を書いても、そんな簡単には「高校生らしい俳句」にならないだろう。 「高校生らしい」というだけでも、「俳句」だというだけでも、「高校生らしい俳句」にはならないからだ。「高校生らしい俳句」であるためには、それらの要素を両立していなければいけない。「ふつう」の高校生には、もとい、「ふつう」の書き手には、「高校生らしい」ことと「俳句」であることを両立できないと思う。

なるほど、俳句甲子園という場ではその両立がいくらか簡単であるかのように考えられてしまうかもしれない。というのも、ここに出される句については、多くの人が、まるで句に「語り手は高校生である」と小さく書き添えてあるかのように読むからだ。句の語り手はしばしば作者とまったく同一であるように扱われる。また、参加資格からして、作者が現に高等学校ないしはそれに相当する教育機関の学生であることをみんなが承知している。だから、あたかもこの場に限っては俳句が「高校生らしい俳句」であるために語り手が高校生であることが句の中で提示されていなくてもかまわないとでもいうかのように、俳句は読まれる。

だとすると、あとは、俳句の形式を崩し過ぎないようにしつつ、同時に作者が現にそう見られているところのイメージを崩さないようにすればいいということになる。ないものを髣髴とさせるのではなく、あるものを崩さないようにすればいいだけだ。幸いなことに、現に高校生である作者のまわりにはそうした「高校生らしさ」の記号が溢れているはずだから、それらの記号を採集して句に盛り込む技術を磨けば、きっと「高校生らしい俳句」を提示することができる。

しかし、この場合、こうした「高校生らしさ」を奨励する価値観それ自体が実際には俳句甲子園という場にひどく依存しているということを忘れてはいけない。これでは、結局、いま現にそう呼ばれているところの「高校生らしい俳句」と同じになってしまう。そのような「高校生らしい俳句」は場のあり方を覆す力を持たない。結局、それは作者がその場において高校生らしい高校生としてうまく振舞っているということにすぎないのではないだろうか。それを一句がそれ自体において「高校生らしい」ということと混同してはいけない。俳句甲子園が新しいものでありつづけるためにこれから全体として乗り越えていかなければならないのは、こうした混同なのではないだろうか。

高校生らしい俳句は、まぎれもなく高校生であるような語り手を、言葉だけでありありと想像させるだろう。そして、語り手が高校生にほかならないことを明示しながら語られるそれらの俳句は、しばしば、読者が知らなかった高校生のありようを伝えることになるだろう。そのとき読者は「高校生というのはたしかにこういうものだ」と言うのではなく、「なるほどこれが高校生か」と言うことになるだろう。

そんなことができたとしたら、それは、たしかにすごい。あえて俳句史を眺めるなら、寺山修司の〈十五歳抱かれて花粉吹き散らす〉などはその一例とみなしてもほぼ問題なさそうだけれど(でも十五歳だと中学生かもしれない)、俳句甲子園でそんな句が出たことは、まだ一度もないのではないだろうか。

それでも、そういう句こそが高校生らしい俳句という言葉であえて呼ぶに値するものなのだと、いま、あえてそう主張しなければいけないのではないだろうか。

ただし、勘違いしてはいけない。そういう句が良い句であるのは、高校生らしいということがそれ自体として価値を持っているからではない。ここで言う高校生らしい俳句は、〈高校生らしさ〉なるものをほんの短い言葉だけで的確に書き留めることに成功しているに違いない。このとき、価値は〈高校生らしさ〉にあるのではなく、書くことの成功にある。
 
おそらく、そんな句を作ってしまう作者はあまり高校生らしい高校生ではないだろう。もちろん、それは別に悪いことではない。

1 件のコメント:

akimasu さんのコメント...

おそらく意図的に省いておられるのだと思いますが、俳句甲子園において「高校生らしさ」を決定づけるのはなんといっても審査員や運営側の意図でありましょう。審査員や運営にとって望ましい性質こそが「高校生らしさ」とされるのです。「甲子園」と名づけた時点でこうなることは自明です。