2018年7月3日火曜日

〔ためしがき〕尊敬する敵 福田若之

〔ためしがき〕
尊敬する敵

福田若之


もし、過去の俳人たちのうちで、尊敬する敵の名をただひとり挙げることを求められたなら、そのとき、僕はおそらく富澤赤黃男を挙げることになるだろう。高濱虛子ではない。うまく名付けることができないのだが、僕にとって、虛子は、敵というのとはすこし違っているようなのである。

赤黃男は、僕にとって、いかなる点で尊敬する敵であるのか。よく知られた警句を挙げよう。
蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない。
「クロノスの舌」に記された赤黃男のこの言葉は、おそらく、直接的にであれ間接的にであれ、マラルメの「詩の危機」のある箇所を踏まえたものであろう。訳して引用する。
それにしても、あの驚くべきものがいったい何になるというのか、自然の事象を振動性のほとんど消失に等しいものへとパロールの働きにしたがって移し替えるあの驚くべきものは、もしそれが、卑近なあるいは具体的な喚起によって妨げられることなしに、純粋な観念を放射するためのものではないのだとしたら。

私は言葉にする――一輪の花! すると、私の声がどんな輪郭をも追いやる先である忘却の、その外で、知られているところの萼とは別の何かが、音楽的に立ちあがるのだ、観念そのものにして甘美なるもの、あらゆる花束に不在のものが。
けれど、たとえば、ランプ、すなわち赤黃男が「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾ったよ」と記したあのランプさえもが、もし、まさに〈ランプ〉であるが、〈そのランプ〉ではないのだとしたら、もし、《このランプ小さけれどものを想はすよ》と記されたあのランプさえもが結局のところ純粋な観念でしかないのだとしたら、それがいったい何になるというのか。

なるほど、赤黃男の句で、これほどまでに具体的なものは極めて例外的であるかもしれない。《蝶墜󠄁ちて大音󠄁響󠄁の結氷期》をはじめとして、《ペリカンは秋晴れよりもうつくしい》も、《甲蟲たたかへば 地の焦げくさし》も、《切株はじいんじいんと ひびくなり》も、《草二本だけ生えてゐる 時間》も、さらには《戀びとは土龍のやうにぬれてゐる》といった句でさえ、言葉は純粋な観念を狙っているようにみえる。そして、赤黃男のこれらの句に、僕もまた何かしら甘美なるものを感じずにはいられない。だが、まさしくそれゆえにこそ、赤黃男は、僕にとって、尊敬する敵であるだろう。

ある意味において、赤黃男は「肉󠄁體」を強く意識した作家であるともいえる。だが、『魚の骨』の「まへがき」に「僕は、一・七メートルの肉󠄁體をこの上もなく愛する。この肉󠄁體は、あらゆるものの中で、最小の肉󠄁體だと云はれる」と記すとき、赤黃男が「肉󠄁體」という言葉で暗に言わんとしているものは、要するに、しばしば「一七音の詩形」とか「最小の詩形」とか謳われる、あの観念としての〈俳句〉にすぎない(そうでなければ、「一・七メートル」もある「肉󠄁體」について、どうして「あらゆるものの中で、最小」だなどと語ることができよう)。そして、おそらくはそれゆえに、のちに『蛇の笛』に収められた《肉󠄁體や 弧を畫いてとぶくろい蝶》という一句において、「肉󠄁體」は、蝶――まさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではないもの――と結びつけられることになるのである。

だが、この赤黃男的な「肉󠄁體」は、僕に言わせれば、まったく「肉󠄁體」ではない。「肉󠄁體」ないしは身体という言葉を、僕は、数かぎりない具体的で個別的なもののひとつひとつのために、たとえば一句一句のために、取っておきたいのである。

赤黃男による一連の理論的な言説に逆らって、赤黃男における個別的なもののひとつひとつを、そしてまた、彼自身という個別的なものを、いかにして引き出すことができるのか。いずれ僕が赤黃男という敵に対して正面から本格的に取り組む機会があるとすれば、その戦いは、最終的にはこの点にかかっているのだろう。たとえば「このランプ」をいかにして救うことができるかという点に。

2017/7/1

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