2019年3月30日土曜日

●土曜日の読書〔虚構の肌ざわり〕小津夜景




小津夜景







虚構の肌ざわり


いまの暮らしは、まあそこそこ気楽だ。理由は人に干渉されないから。むかしはそうはいかなかった。勉強をすれば男子に「女のくせにヘーゲル左派なんか」と言われ、仕事をすれば客に「こんなところでしか働けへん女は惨めやな」とさげすまれ(少しハードなお仕事だっだのだ)、飲みに行けば隣にすわっただけの知らない会社員に「お嬢さんぶってないでもっと苦労せなあかん」と説教されるといったぐあい。で、こうした干渉を、この国ではいちども受けたことがない。

もっとも、相手を低くみる意図の発言をする人にはひとりだけ出くわした。あるとき、机に向かって仕事をしていたら、隣の部屋の男性がやってきて、こう言ったのだ。

「ねえ知ってる? いま世界で使用されている偉大なイデー(理念)は、ほとんどがフランスの発明なんだよ」

あらまあ。いきなりやってきて、なんなのかと思ったら。そこで真面目な顔をして、

「はい。フランスは『人権』をはじめとして、すごいイデーをいっぱい『発明』しました。いっこも『実現』はしていませんが」

と返してみた。すると男性は、腹を立てたようすもなく、うなずきながらこう言った。

「だいじょうぶ。問題ないよ。だって僕たちはみな錯覚の中に生きてるんだから!」

なんじゃそりゃ。ポジティヴシンキング肥大症? わたしは予想をはるかに超えた彼の自己肯定に度胆を抜かれた。そして、ううむ、お国柄が違うというのはこういうことなのか……と、その自慢の肌ざわりにちょっとだけ感じ入った。

思えばフランスは、少なくともシラクの時代までは、舌先三寸のイデーを切り札に世界のイニシアティブをとってきた。そしてそれは、経済で対抗すればアメリカの足元にも及ばないこの国にとって、大国であるための戦略として絶対的に正しい。イデーとはフランス流の虚構であり、当然ながら日本流の虚構とはぜんぜんタチがちがう。そしてまた、錯覚だと愛国者みずから自認するそのイデーが、実は建前としてそれなりに機能していて、わたしの暮らしのかつてなかった自主独立を保証していることは少しも否定できないのだ。

現実における虚構ではなく、文学上の虚構もずいぶん肌ざわりが違う。たとえばジャック・ルーボー誘拐されたオルタンス』(創元推理文庫)は、脱線につぐ脱線とそれらを回収する数学的法則性とがみごとな綾をなした(おまけに猫も名演技をする)極上のメタ・ミステリーなのだけれど、この虚構による虚構のための本格虚構遊戯小説が、きわめて優雅でおっとりしている。ふつう本格虚構遊戯というのは、これでもかの意匠のてんこもりであるがゆえに、おっとりしてなんか見えないものだ。また優雅に見せようとして、逆に自意識のアクを強めるだけのこともしょっちゅう。
シュークリームは
モラヴィア・ボヘミア地方では
社会主義に染まるけど
ウクライナでは
磁器のせいで
頁岩(けつがん)色になるんだよ
梨のタルトは
遊牧民のテント村では
ヤギの糞に染まるけど
ブリスベンでは
プロパンのせいで
レンガ色になるんだよ
サツマイモのタルト
カルパティア山脈では
血みどろに染まるけど
カブルグでは
恋のせいで
卵白色になるんだよ
鼻歌っぽく、さっぱりして、なにより作者が楽しそう。そして、こうしたことがわたしには、作家個人の資質(ところでジャック・ルーボーとは何者なのか。それについては以前この記事の後半で詳しく語ったので割愛)以前に、他人に干渉しないではいられない暇人のえじきとならず、そしてまた自分も他人に干渉せずに、自主独立をはぐくんできたことの果実のようにいまでは感じられるのだった。


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