2019年3月2日土曜日

●土曜日の読書〔悲しき幽霊〕小津夜景




小津夜景







悲しき幽霊


前回、幽霊本について少し触れたが、幽霊本は運がよければ古本屋で手に入る分まだましだ。この世にはどうしても手に入らない本だってある。キルゴア・トラウト『サンキュー第一地方裁判所』然り、デレク・ハートフィールド『虹のまわりを一周半』然り。その昔、坂本龍一が『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)という本を出していたけれど、ああいうのもまた生涯めぐりあうことのない幽霊のひしめく蟻塚だろう。

それから、本は手に入るものの作家が実在しないといったパターンもある。ジョージ・ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫ほか)は、ひょんなことから莫大な遺産を手にした作者の友人ヘンリ・ライクロフトなる文士が、南イングランドの片田舎に隠栖し、四季を愛で、本を読み、思索に耽る日々を、四季を追って徒然なるままに綴った遺稿である……といった体裁の小説だ。

この本が独特なのは、小説の仮面をかぶりながらも、実際は100%ギッシング自身のエッセイ集だと誰もがわかるつくりになっていること。ではなにゆえヘンリ・ライクロフトなる友人文士が架構されたのかというと、隠栖とは無縁の自然主義的貧困生活(気になる方はググってください)を送っていたギッシングが、みずからの理想とする「知的生活とその意見」を立体的に描くために、それにふさわしい境遇の分身をあつらえたという経緯である。そんな舞台裏をシンプルに物語っているのが、この本の冒頭に刻まれた、ローマの詩人ホラティウスの諷刺詩からの引用《Hoc erat in votis(これは我が祈願の一なりき)》だ。

ところで一般に、この本の最大の魅力は、詩情に富んだ英国の四季をたっぷりと織り交ぜた美しい描写の数々や、本好きの理想といえる悠々自適な読書生活の愉快さにあると言われている。その評判を聞いた私は、いてもたってもいられず、いそいそと読んでみたのだけれど、残念なことに少しも好みではなかった。私の目には世間で言われる魅力よりも、他者への不寛容、社会に対する無知、会話を理解する能力の欠如など、平穏無事な生活のはざまにゆらめく根深い狭量の影がむしろ主調として映ったのだ。またこうした欠点が当時の価値観を考慮するに足りないことは、ギッシングに対する同時代人の評からも察せられてしまうのだった。

とはいえ読むからには楽しみたい。それで、気分と焦点とをちょっと変えて、じーっと眺め直していると、いくども読み返したくなる虚構の分身の日常と、人生に対する恨みを隠さない現実の作者との交錯が、この本の奇妙な味となっていることに気づいた。そしていつしか、私にとってヘンリ・ライクロフトは、作者の狷介な精神に閉じ込められ、隠遁の夢想を生き損ねた悲しき幽霊として、とてつもなく興味ぶかいものとなったのである。
咲いた花の名を一つ一つ思い当てたり、芽を吹いた梢が一夜のうちに緑で蔽われるのに驚いたり、自分は楽しかったその折々のことどもを思い出す。リンボクが雪のように白く輝き初めたのを、自分は見落さなかった。いつも咲く土手ぎわで、自分は初咲きの桜草を見当てた。またその茂みの中で、自分はアネモネを見つけた。キンポウゲで輝いている牧場やリュウキンカで照りはえた凹地を、自分は飽かずに長く眺めていた。ネコヤナギが銀色の毛皮の毬花を光らせ、金色の粉できらめいているのも見た。こんなありふれた物が、見れば見るほどいや増す讃嘆と驚異の念で、自分の心を打つのだ。それらは再び消え去ってしまった。夏に向う自分の心の中には、喜びに疑念が混じている。
死ぬ日まで自分は書物を読んでゆくのだ、——そして忘れてゆくのだ。ああ、それが一番困った点だ!  自分が種々の場合に得た知識を、すべて残らずものにしていたなら、自分は学者を名乗ることもできたであろう。確かに、長いあいだ耐えてきた心労や、興奮や、恐怖ほど、記憶力をそこなうものはない。自分は読んだものの中で、ほんの端くれを覚えているに過ぎない。それでも自分は、たゆまず、楽しんで、この先も読んで行くだろう。まさか将来の生活のために、学識を積むわけでもあるまい。実際、忘れることはもはや苦にならないのだ。自分には過ぎて行く一刻一刻の楽しみが得られる。人間として、それ以上、何を望むことができようか。
自然や読書にまつわる記述から、とても繊細で美しい箇所を引用してみた。ライクロフト=ギッシングは自然や書物を味わいながらも、決して飢えを癒すことの叶わない、時を惜しむもののまなざしを世界に対して投げかけつづけている。


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