2022年5月25日水曜日

西鶴ざんまい #27 浅沼璞


西鶴ざんまい #27
 
浅沼璞
 

夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰  前句(裏五句目)
 宮古の絵馬きのふ見残す   付句(裏六句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
付句は雑。なので前句の夏月は「一句捨て」となります。夏・冬の句数は1~3なので「一句捨て」も許されますが、月の座を包んでの「一句捨て」はいささか大胆かと。
 
 
 
では付句の語句をみましょう。まずは「宮古」――中公版『定本西鶴全集12』の頭注には、「連俳にては京都の場合に限り『宮古』と記す(俳諧無言抄)」とあります。
 
絵馬の読みは「ゑむま」です。

句意は「京の都の寺社の絵馬を、きのう見物し残した」というところでしょう。
 
 
 
以下、自註を抜粋します。

「見わたせば、祇園に、平忠盛にとらへられし火ともしの大男おそろし。清水に、福禄寿のあたまに階子(はしご)をかけ月代(さかやき)を剃る所もをかし。……鬼の琴ひくもありぬべし」

意訳すると「京の道化絵馬を見渡せば、祇園では平忠盛に捕えられた火を灯す大男が怖ろしい。清水寺では福禄寿の頭に梯子をかけ、額髪を剃るのもおかしい。……都のどこかに鬼が琴を弾く絵馬もあるに違いない」といった感じです。

要は前句の「琴引く鬼」を、絵馬の道化絵として見立て替えているわけです。
 
 
 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。
 
  まこと宮古の絵馬のごとし 〔第1形態〕
    ↓
  宮古の絵馬きのふ見残す  〔最終形態〕

〔第1形態〕はたんなる前句の見立てですが、〔最終形態〕は前句の季(夏)を受け、日永でも見尽くせない京の寺社見物を思わせます。

しかも写実的には「琴引く鬼」の道化絵が夏月に照らされて浮かびあがる、といった設定でしょう。

「……そやったか」

はい、それに第三「役者笠秋の夕に見つくして」と別趣向になってますね。

難波では見尽くし、都では見残す、いいですね。

「……そやったか」

あー、もう忘れましたか。けど連句は〈忘却を逆エネルギーとしてすすめられていく〉って名言があります。先師・廣末保先生が『芭蕉と西鶴』(1963年)で述べられています。

「……忘れたいこと仰山あったからな、わては」

……確かに。
 

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