2026年2月20日金曜日

●金曜日の川柳〔翠川蚊〕まつりぺきん



まつりぺきん





ここ 見てて ロバが立てなくなるシーン  翠川蚊

題は「星月夜」。

イメージの幅が広く難しい題で、月は出ていないが星が明るく輝いている夜を指します。
そこにロバという経済動物がいて、立てなくなってしまう光景。

「ここ 見てて」は映像作品を観ながら、視聴済みの主体が初見の相手に対し、これから流れるシーンを注視するよう促すイメージ。

そこには不能へと変化する何かに対する哀感や憐憫とともに、若干の嗜虐的興奮が滲んでいます。

また、差し込まれる一字空けには、どこか未熟な発話を感じます。

漆黒の闇ではなく、少し明るい夜だからこそ見えしまう残酷な何か。

かなりの飛躍を感じつつも、叙情性高く仕上がっており、味わい深い句になっているのではないでしょうか。

「海馬万句合」第二回より。

2026年2月18日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #91

 

西鶴ざんまい #91
 
浅沼璞
 

 八徳を何のうらみに喰割れ   打越
  鴻の巣おろす秋の夜の月   前句
 平調の笙の息つぎ静にて    付句(通算73句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏9句目。  恋離れ。  秋=平調(ひやうでう)=雅楽十二律の一つ。陰陽五行説により秋季に対応する調子。  笙(しやう)=雅楽の管楽器。15本の竹管の根元にあるリード(簧・した)を吸気・呼気で振動させて音を鳴らす。  息つぎ=息継ぎ。

【句意】
平調を吹く笙の息継ぎは静かである。

【付け・転じ】
鴻の巣材のうち、笙の演奏に役立つ石に注目し、視覚表現から聴覚表現へと転じた。

【自註】
笙をしめすに鴻の巣にある石にて心よき事、古き書に見えたり。是に、むかしは楽人(がくにん)、此の鳥の巣おろしして、彼の石をさがし、重宝となしける。平調は秋の調子なれば、前句の月によせて一句にむすび侍る。

【意訳】
笙(の簧)を湿らすのに鴻の巣にある石を以てすると快い音色になる事が古い書物にみえる。これにより、むかしの雅楽の演奏家は此の鳥の巣をおろして、その石をさがし、貴重なものとした。平調は秋季の調べなので、前句の月に付けて一句にするのです。

【三工程】
(前句)鴻の巣おろす秋の夜の月

  笙の簧しめすに石の重宝し 〔見込〕
     ↓
  湿らせて笙の息つぎ静なる  〔趣向〕
     ↓
  平調の笙の息つぎ静にて    〔句作〕

鴻の巣材から、笙の簧を湿す石に注目し〔見込〕、〈どのように石は役立つのか〉と問うて難しい息継ぎもすんなりできるとし〔趣向〕、前句の月にあわせて秋季の「平調」とした〔句作〕。

【テキスト考察】
『新編日本古典文学全集61』には〈笙の演奏でもっとも難しいのが息継ぎのときで、それが笙石のお陰でスムーズにいく〉とあります。

ちなみに『西鶴名残の友』(巻四ノ四)にも、〈此の巣の中にありける石は、笙の舌(=簧)をしめすによしと、古人つたへける〉とあり、鶴翁に雅楽への知識があったことが知られます。

 

2026年2月16日月曜日

●追悼・樋口由紀子 週刊俳句関連リンク集

追悼・樋口由紀子 週刊俳句関連リンク集



金曜日の川柳:ウラハイ
https://hw02.blogspot.com/search/label/HiguchiYukiko

樋口由紀子 兼題「金曜日」10句 2015-12-13
樋口由紀子 清潔な靴 10句 2018-12-23
樋口由紀子 もうすぐお正月 10句 2019-12-22

樋口由紀子さんへの10の質問 2018-08-19

樋口由紀子・水に浮く・7句×齋藤朝比古・水すべて・7句 2007-06-03
「水」のあと 2007-06-10
上田信治×西原天気 「水に浮く」×「水すべて」を読む 2007-06-10

樋口由紀子 ハラハラ・どきどき 170本の「金曜日の川柳」 2014-08-24

樋口由紀子 特集【 山田耕司句集『不純』を読む】川柳作家から見た『不純』 おとこまえ 2018-09-09
樋口由紀子 需要と供給 斉田仁句集『黒頭』と望月裕二郎歌集『あそこ』 2014-12-14https://weekly-haiku.blogspot.com/2014/12/blog-post_16.html

柳俳合同誌上句会2020 投句一覧 2020-09-06
柳俳合同誌上句会〔2020年9月〕選句結果 2020-09-13

柳本々々 境界破壊者たち 樋口由紀子句集『容顔』の一句 2014-08-10

小林苑を わたしと出会うための一冊 樋口由紀子『めるくまーる』 2020-11-22
西原天気 頻発するカタストロフ 樋口由紀子『めるくまーる』を読む 2019-09-15

山田耕司 爽快、「理解不能で面白い」という感じ方。 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 2011-05-22
柳本々々 斡旋・素手・黒板 樋口由紀子『川柳×薔薇』のあとがき 2017-01-22
西原天気 親切で誠実な批評 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 2012-02-12

五十嵐秀彦 私性と虚実柳誌『MANO(マーノ)』第15号を読む 2010-04-25

川柳 「バックストローク」まるごとプロデュース号 2010-03-07
樋口由紀子 川柳に関する20のアフォリズム 2010-03-07

2026年2月15日日曜日

★週刊俳句の記事募集

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2026年2月13日金曜日

●金曜日の川柳〔落合魯忠〕湊圭伍



湊圭伍

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



深呼吸してから海を吐き出そう

落合魯忠

海を体内に溜め込むには、長い時間がかかりそうだ。この句の場合とくに、わざわざ深呼吸してから吐き出すほどの量なのだから相当である。ただ海をたびたび訪れる程度ではなく、海上に浮かびながら久しい過ごすことで、波のうねりが少しずつ、しかし着実に全身に染み入った結果という風だ。

そうして溜まりに溜まった海を吐き出すに至った経緯も気になるが、句はそれは語らない。かろうじて「吐き出そう」に決意が読み取れる。そこには吐き出すことへの無念の思いが、あるいはそれとは逆に、海の重みからついに解放されることへの安堵が伴っているだろうか。句の言葉からはどちらでもないように感じられる。いや、どちらでもあるのか。

あえて読みを絞り込むと、かすかな明るみの感覚が、そのかすかさにも関わらずくきやかに表現されていると思う。その明るみの中に、海を吐き出し、過去を手放す瞬間、この人物の脳裏にひらめいた数多の光景を思う。

落合魯忠『句集 オンコリンカス』(私家版)より(「オンコリンカス」は、魚のサケ科の学術名)。

2026年2月9日月曜日

●月曜日の一句〔攝津幸彦〕西原天気



西原天気






舞ふブロンドの髪のサラダよ星条旗  攝津幸彦

《舞ふ》という動きが《ブロンドの髪》だけでなく、座五《星条旗》にまで掛かり、ペタッと平面ではなく、風にはためくさまが目に見える。そこのところが、まずこの句の主成分。

それにも増して《サラダ》。《サラダ》が全体の明度や肌理を調整して、この句を叙景でもなく、事柄の描写でもなく、あざやかな塑像として成立させる。このときの《サラダ》は隠喩でもなく、よくよく考えれば見立てでもない。《ブロンド》と《星条旗》というありがちで安定的なセットに割って入るに、いっけん順当なようでいて、そうでもない。異物感が残る。そこが肝心なのだろう。句が、絵ではなく立体(それこそ「塑像」)として仕上がり、妙味が尽きません。

ところで、星条旗と聞いて、思い浮かべるものはもちろん人によって多様。極東に生まれて暮らす私は、例えば、ジミ・ヘンドリクスのウッドストックでのあの圧倒的な演奏(≫動画)。米国人が The Star Spangled Banner と聞いて思い浮かべるものもきっと多様。何億ものべつべつの想像・連想があって、それこそが象徴たる国旗の作用なのだろう。だから、掲句のこの座五は、そこまでの措辞を定着・念押しするものであるように見えて、茫洋たる多様へと広がっていく作用でもあるようなのですよ。

掲句は第二句集『鳥子』(1976年)所収

 

2026年2月6日金曜日

●金曜日の川柳〔畑美樹〕なかはられいこ



なかはられいこ


※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



くださいください顔上げて言う魚市場  畑美樹

鯖を買いに来たのだ。いや、秋刀魚でもいいけど。お店の人に「ください」と言う。だけどここは市場だ。声は周囲の喧騒にまぎれてしまう。今度は少し大きな声で「ください」と言う。お店の人はまだ気づいてくれない。うう、っと、勇気をだしてうつむきがちの顔をあげる。そして「くださいください」と連呼するのだ。

(ひたむき)とか(一途)いう概念が具現化された、うつくしくもいとおしい一句。

『現代川柳の精鋭たち』(2000年/北宋社)より。

2026年2月4日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #90

 

西鶴ざんまい #90
 
浅沼璞
 

  儒の眼より妾女追出す    打越
 八徳を何のうらみに喰割れ   前句
  鴻の巣おろす秋の夜の月   付句(通算72句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏8句目。  恋離れ。  秋=月の定座の二句引き上げ。  鴻の巣(こふのす)=コウノトリの巣(高木や大寺の棟瓦などに作られる)。

【句意】
コウノトリの巣を(木から)おろす秋の夜の月。

【付け・転じ】
食い裂かれた八徳を、コウノトリの巣材と見なし、恋から転じた。

【自註】
惣じて、梢の鳥、巣に、ちり塚のちりの中より、文反古(ふみほうぐ)あるひは落髪(おちがみ)、わけもなきさま”/\を集めける。中にも*大鳥の巣には、帯、たすき、洗ひぎぬの片袖などかけ来たりて、人に迷惑いたさせける。

*大鳥(おほとり)=コウノトリの俗称。

【意訳】
だいたい梢の鳥は、ごみ溜めの中から、紙屑あるいは頭髪、どうでもよい様々なものを巣に集めてくる。わけてもコウノトリの巣には、帯、襷、洗濯物の片袖などかっ攫って来て、人に迷惑をかける。

【三工程】
(前句)八徳を何のうらみに喰割れ

  大鳥の巣に帯・襷など  〔見込〕
     ↓
  高き梢の巣をおろすなり 〔趣向〕
     ↓
  鴻の巣おろす秋の夜の月 〔句作〕

コウノトリが巣材として人の衣服を食い裂いたと見なし〔見込〕、〈どう対処するのか〉と問うて「巣をおろす」とし〔趣向〕、月の定座が近いので、視界のきく満月の晩とした〔句作〕。

【テキスト考察】
『訳注西鶴全集2』によると、巣は「樹の命を害する」そうです。だから巣をおろすわけで、さらに「昼間は親鳥が怒つて人に危害を及ぼすから、これを避けるため夜する」とあります。とりわけ満月の晩なら視界もきくことでしょう。

ところで『新編日本古典文学全集61』では「鴻の巣」を俳言と明記しています。やはり身近な世俗の言葉ということなのでしょう。かたや下七「秋の夜の月」は、〈秋の夜の月にこころのあくがれて雲ゐにものを思ふころかな/花山院〉などがあるように歌語と解せます。とすれば、歌語/俳言という雅俗の取合せになっていると解せそうです。

そういえば芭蕉にも〈鸛の巣もみらるゝ花の葉越哉〉の発句があります。〈鸛(鴻)の巣〉の俗と、花(山桜)の雅との取合せかと思われます。

 

2026年2月2日月曜日

●月曜日の一句〔正岡子規〕西原天気



西原天気






天地を我が産み顔の海鼠かな  正岡子規

『ナマコの眼』という名著がありますが(鶴見良行著/1990年)、海鼠に眼はないそうです。なので、顔といえるものがあるかどうか。ただし、頭と尻はある。つまり前後はある。

海鼠は〈天地(あまつち)〉を創造したかのような顔をしている、と言われれば、顔はなくても、そうかもしれない。子規には、《渾沌をかりに名づけて海鼠かな》の句もあって、混沌と天地創造と海鼠が、アタマのなかでセットになっていたようです。

ところで、子規は、「天地混沌として未だ判れざる時腹中に物あり恍たり惚たり形海鼠のごとし。海鼠手を生じ足を生じ両眼を微かに開きたる時化して子規となる。」という文章も残しているそうです(≫規と漱石の海鼠)。

眼のない海鼠が眼を得たもの、それが自分だ。というわけで、海鼠にはなみなみならぬ親近感を抱いていたのかもしれません。

 

2026年1月30日金曜日

●金曜日の川柳〔江口ちかる〕まつりぺきん



まつりぺきん

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



海辺まですべっていった相撲取り  江口ちかる

題は「相」。

意味が通っているものの、「なぜ?」と思わされるタイプの句。

語の連結から生み出される印象は叙情性とは異なり、奇妙でコミカル。

浄化や美をイメージしがちな「海辺」という自然物から入りつつ、「まで」と限定することで、体重(=びくともしない)を意識させます。

「滑って」と漢字ではなく、ひらがなに開いた点も滑稽味を強調していて効果的。

「相」という題で「相撲取り」を連想すること自体はむしろ安易な印象ですが、その上がったハードルなど軽々と飛び越えてくる軽やかな句…相撲取りなのに。

第30回杉野十佐一賞より。

2026年1月26日月曜日

●月曜日の一句〔斉田仁〕西原天気



西原天気






冬の空どんみりと坂垂らしけり  斉田仁

《どんみり》は「色合いが濁っているさま。空の曇っているさま」。語感にほぼ一致する意味合い。芭蕉に《どんみりと樗(あふち)や雨の花曇》がある。

空と坂を詠むにおいて、その垂直の関係のなか、この句は、空から坂へ、上から下への視線の移動。

動詞「垂らす」は、冬空と坂道、双方の重ったるさを伝え、《坂》が《冬の空》の一部、あるいは延長であるかのよう。となると、色も同じグレー系。句全体がモノトーンに。

掲句は句集『異熟』(2013年2月/西田書店)所収。

 

2026年1月25日日曜日

●寒泳

寒泳

寒泳のかたまり泳ぐ日の真下 細川加賀

寒泳のみな胸抱いて上がりくる 斉田仁

寒泳の田中小実昌ではないか 西原天気

寒泳の見るに忍びぬ画面かな 相生垣瓜人

2026年1月21日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #89

 

西鶴ざんまい #89
 
浅沼璞
 

 老の浪子ないものと立詫て   打越
  儒の眼より妾女追出す    前句
 八徳を何のうらみに喰割れ   付句(通算71句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏7句目。  恋=うらみ  八徳(はつとく)=胴服の一種。儒教では仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌を八徳という。  喰割れ(くひさかれ)=食い裂かれ。

【句意】
八徳をなんの恨みによってか食い裂かれ。

【付け・転じ】
親爺が妾女を追い出した原因はなんであれ、これまで費やした年月への女の恨み・辛みへ焦点をしぼり、儒者の象徴である「八徳」が「食い裂かれる」と転じた。

【自註】
儒者の衣類なれば「八徳」と付け出だし、追い出さるゝかなしさに、年月のうらみをいふて、何国(いづく)も女の業(ごふ)とて、面(おもて)に角のはえぬ計(ばかり)。「此の執心、外へは行くまじ」と所さだめずかみ付きて、「道をしれる人の、今となつて人を迷はす事やある」といへる心付ぞかし。

【意訳】
(前句の)儒者のその衣服から「八徳」を出して付け、(その儒者に)追い出される悲しさに、年来の恨みを言って、(そのように)どこでも女の業は深くして、額に角の生えてしまいそうなほど。「この執着心は外にはいくまい」と所かまわず噛みついて、「儒の道を知る人の、今さら人を路頭に迷わすことがあろうか」という心持ちを以ての付けである。

【三工程】
(前句)儒の眼より妾女追出す

  年月のうらみは業の深くして  〔見込〕
     ↓
  うらみにて所定めず噛み付きて 〔趣向〕
     ↓
  八徳を何のうらみに喰割れ    〔句作〕

親爺が妾女を追い出した原因はなんであれ、これまで費やした年月への女の恨み・辛みに焦点をあわせ〔見込〕、〈どれほど恨んでいるのか〉と問うて「所定めず噛み付くほど」とし〔趣向〕、ほかでもない儒者の象徴である「八徳」が食い裂かれるまでと強く表現した〔句作〕。

【テキスト考察】
『新編日本古典文学全集61』では〈打越の「子ないもの」から離れなければならないので、前句の「妾女」を「追出」した本当の原因は、男の側の浮気心にある、とほのめかした付けとなる〉としています。けれど付句では「何のうらみに」と謎をかけており、自註をみても「浮気心」への言及はありません。自註ではただ「年月のうらみ」とあり、加えて「今となつて人を迷はす」ともあります。ここは原因はなんであれ、無駄になった(女ざかりの)歳月への恨み・辛みが根幹にあるのではないでしょうか。

 

2026年1月16日金曜日

金曜日の川柳〔岸本水府〕湊圭伍



湊圭伍

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



右の灯が左になつて船が着き  岸本水府

近代川柳の六大家のひとりである水府の昭和23年(57歳)の句。

「時間性の抹殺」(山本健吉)が俳句の本質かどうかはさておき、俳句と比べて川柳では、描かれる世界において、また言葉の運びにおいても、時間性が活かされ、また、強調されることが多いようだ。

掲句、夜の川をやってきた船が船着き場手前でのんびりと向きを変え、ゆったりと着岸する、そのあいだの間延びした時間の流れこそが句の内実と言い切ってよい。あるいは、この光景を思考はからっぽに、固定カメラのように映し出し続けている視線の無為を味わう、とも言えようか。

さらには、「右の灯が左に」から上の光景を読み解くまでの読者の頭のなかでの遅延も、この句から受ける時間感覚に寄与しているようにさえ思われる。

『岸本水府川柳集』(有文堂、昭和23年)より。

2026年1月9日金曜日

●金曜日の川柳〔ながたまみ〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



おへそから悲しくなると鳴る和音 ながたまみ

からだというのは、悲しいとき、いかにも順当な反応を見せるばかりではない。悲しいとき、悲しい表情で涙する、というばかりでないのだ。臍から和音が鳴ることだってある、と、この句は言っている。この反応は、ちょっと間抜けで場違いで突拍子もない。周囲に人がいたら、不謹慎との誹りを受けるかもしれない。疎んじるような冷たい目を向けられるかもしれない。

で、どんな音、どんな和音なのだろう。そういう興味はとうぜん湧く。悲しいからといって、短調の和音とも限らないと思うが、長調だと、不謹慎さんが増す気がする。ここはそれよよりも、単音ではなく和音というころがミソで、単音だとおならに間違われかねない(尾籠で失敬)。

ところで、構造上になんらかの制約を受ける定型では、伝達という機能上で齟齬ないし不備がしばしば起きる。などと、しちめんどくさい言い方をしてしまうが、つまり、《おへそから鳴る和音》と読むのがしぜんだとは思うが、《おへそから悲しくなる》という事態も、ここにあるとしたら、和音は《おへそ》からでなくともかまわない。「つまり」以降も、しちめんどくさいことには変わりない(おおいに反省)。

で、どう読むか。あくまで散文的な意味の「どう」なわけですが、この手の問題が起きたときは、「どっちでもいい」がとりあえず答えになる。あるいは「どっちも」。

この和音は、ひとまず(一読して受け取ったとおり)おへそから鳴る。でも、おへそから悲しくなることもあるはず。さらにいえば、悲しいから和音が鳴るのではなく/だけではなく、和音が鳴ったから悲しいということもいえる。

結論として、この句の事態・事象は、かなり可笑しい。可笑しいから悲しい。

掲句は『川柳ねじまき』第1号(2014年7月20日)より。

2026年1月7日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #88

 

西鶴ざんまい #88
 
浅沼璞
 

  朝食過の櫃川の橋      打越
 老の浪子ないものと立詫て   前句
  儒の眼より妾女追出す    付句(通算70句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏6句目。  恋=妾女(てかけ)。めかけ。  儒の眼(じゆのまなこ)=儒教的な見地。  ※〈上の儒の音に応対して、セウヂョと訓むのではあるまいか〉(訳註西鶴全集)

【句意】
儒教的な見方によって(子のできない)妾を家から追い出す。
※当時は独身でも妾を雇った。〈独り寝覚のさびしきに、此の夏より妾女を尋ねける〉(武道伝来記)。

【付け・転じ】
前句の老いた乞食を、妾女を雇う親爺に見替え、その不妊を詫びる態として転じた。

【自註】
年ひさしく*道者㒵して見台に眼をさらし、儒書の**口談などして、中/\物がたき親仁、「子孫のなき事、***先生のをしへに叶はず」迚(とて)、子のない姿を見定め、ひとりの女を暇(いとま)遣はしける付けかた也。

*道者㒵(みちしやがほ)=専門家のような顔付。  **口談(こうだん)=〈「講談」の誤か〉(定本西鶴全集)。  ***先生=〈「先聖」の誤か〉(定本西鶴全集)。

【意訳】
年月久しく専門家ヅラして書見台を控え、儒教本の講談などして、なかなか厳格な親爺、「子孫のないことは先達の教えにかなわない」とて、子ができない様子を見極め、ひとりの妾に暇を出した付け方である。

【三工程】
(前句)老の浪子ないものと立詫て

  道者㒵して妾女見定め  〔見込〕
     ↓
  儒書の教へに叶はぬ妾女 〔趣向〕
     ↓
  儒の眼より妾女追出す   〔句作〕

前句の老いた乞食を、妾女を雇う親爺に見替え、その女を見定めているとし〔見込〕、〈妾女の不妊をどのように考えているか〉と問うて、「儒の教えに則さない」とし〔趣向〕、儒教的見地から「妾に暇をやる」とした〔句作〕。

 

これまでの自註でも〈かたい親仁〉というのが何回か出てきましたね。

「そうやったか、またよう調べはるな」

はい、オモテ8句目〈子供に懲らす窓の雪の夜〉の自註にはスパルタ教育をする「かたい親仁」、つまり厳格な教育パパ(意訳では「親父」)が登場。

二ウラ3句目〈和七賢仲間あそびの豊か也〉の自註では唐土の「かたい親仁ども」、つまり中国の厳格な賢人(意訳では「親爺」)たちが描かれています。

「そうか、知らんうちに作者の人柄がでてしまうんやな」

えっ? 厳格、ですか……。