2015年11月6日金曜日

●金曜日の川柳〔加世田起南子〕樋口由紀子



樋口由紀子






この日閑(しず)か椿が雨を嚥んでいる

加世田起南子

「この日閑(しず)か」と捉えた表現力、「椿が雨を嚥んでいる」とみた描写力に目が止まった。おざなりの「静か」や「飲んでいる」とは違う、それでは言い表せない別のものが「閑か」「嚥んでいる」の表記が訴えかけてくる。椿は濡れるのではなく、自発的に雨を嚥み、ますます赤くなり、作者の心はより閑かになったのだろうか。言葉によって作者独自の景が浮かび上がる。そのように椿を見たら、世界や人の見方が変わってくるように思う。自分の生や内面、心の動きを見つめている。

私はこのように景を捉えることも見ることもできない。だから、掲句は自分と同じ気持ちであるという「わかる」ではない。かといって自分と同じ気持ちでないから「わからない」というのでもない。こういう感じ方があり、そう思う人がいる。ただ、自分はまだそこに立ち会っていない。〈赤鴉おまえに置き去りにされた落ち葉掃く〉〈しろいろがみずからつかれきっている〉 『翠雨』(1992年刊)所収。

2015年11月5日木曜日

〔人名さん〕 島倉千代子

〔人名さん〕 
島倉千代子

昭和 あゝ島倉千代子のうたふ恋  筑紫磐井

筑紫磐井句集『我が時代 二〇〇四~二〇一三』(2014年3月/実業公報社)より。



2015年11月4日水曜日

●水曜日の一句〔大高翔〕関悦史


関悦史









未来都市かすみのなかにまた光る  大高翔


肝となるのは「また」なのだろう。一度光っただけではなく、明滅をくり返している。

それと「かすみ」の湿度が合わさることにより、都市そのものが無機的なまま生命感を帯びるのだ。都市の住人の姿はさしあたり見えていない。実際、「未来都市」で画像検索をかけると、出てくるのはメタリックな質感の際立つCG画像ばかりである。

「未来都市」は、すでに眼前に実現しているのであれば「未来的な都市」というだけのことだが、「的」を抜くことで、視点人物が何やら未来にトリップしているような、あるいは時間の流れの外に位置しているような浮遊感、眩惑感を帯びることとなる。

現実に夜の大都市を見渡すときにもそうした浮遊感、眩惑感は起こるので、それをレトリック上「未来」と言いきった形だが、「未来」を実見するという矛盾が句に孕まれることにより、都市の生成と、さらに遙かな未来におけるその消滅の可能性までもが抒情のなかに言いとめられたのである。

そう、句はあからさまに抒情している。都市の無機的な美を描いているとはいえ、その根底にあるのは非人間的なものへの畏怖や死の恐怖を根底に沈めた崇高さといったものではない。小説でいえばJ・G・バラードよりは日野啓三に近いものだ。この視点人物は、心地よく、心情的によりそうように「未来都市」と一時をともにし、無機的なものたちの清潔な冷たさ(それも春の「かすみ」のなかなので耐えられないほどのものではない)に身の内を照らされつつ、やがてそこを無事に離れるだろう。まちがっても破滅の愉楽へとつっこんでいくことはない。

無機的美観への観光という体験を穏当な句にすることによってあらわれたのは、「未来」が希望とも絶望ともさしあたり無縁な、漠然と儚げなものとしてあるという、一抹の寄る辺なさを含みつつも、比較的安定した生活感情であった。


句集『帰帆』(2015.10 角川書店)所収。

2015年11月3日火曜日

〔ためしがき〕 俳句:短命な物語 福田若之

〔ためしがき〕
俳句:短命な物語

福田若之

もし物語というものが本質的に自らを可能な限り長引かせようとする性質(=自己保存本能)をもつとするならば、俳句として成立するのはそもそも短命な物語だということになるだろう。

たしかに、当てはまる例は数多くある。思いつくままにいくつか挙げると――

向日葵が好きで狂ひて死にし画家    高濱虚子
生涯にまはり灯籠の句一つ         高野素十
滝の上に水現れて落ちにけり        後藤夜半
金魚玉とり落しなば鋪道の花        波多野爽波
海に出て木枯帰るところなし         山口誓子
いなびかり北よりすれば北を見る     橋本多佳子
湯豆腐やいのちの果てのうすあかり   久保田万太郎

などなど。これらの例の共通点:エントロピーが限界まで増大したように思われるということ(ひとつの閉じた系があるのだ)。

これらとは別の、特殊な例――

咳の子のなぞなぞあそびきりもなや   中村汀女
草二本だけ生えてゐる 時間       富沢赤黄男
分け入つても分け入つても青い山    種田山頭火 

これらの句においては、語られていることの限りなさが見いだされることによって、もはや新たに語るべきことがなくなるのである。

だが、俳句のなかには、ときに、物語の突然死とでも呼びたくなるものが見いだされる――

徐々に徐々に月下の俘虜として進む  平畑静塔
死にたれば人来て大根煮きはじむ    下村槐太
少年や六十年後の春の如し        永田耕衣

あるいは、

月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵          高柳重信

なぜ、ここで終わるのか:なぜ、これらの言葉はここでとどまらなければならなかったのか?

それを説明することができない(俳句にとどめようという作者の意識を抜きにしては):どの句も、何かを宙吊りにしたまま終わってしまう。だが、この宙吊りこそがこれらの句の魅力であることは疑いない。

2015/9/9

2015年11月2日月曜日

●月曜日の一句〔杉山久子〕相子智恵



相子智恵






小鳥来る旅の荷は日にあたゝまり  杉山久子

句集『泉』(2015.9 ふらんす堂)より

鄙びた無人駅でのひとコマを想像した。

日に数本しか来ない列車を待っている。ホームには小さな屋根しかなく、その屋根が作る日陰で秋の案外強い日差しを避けながら待っていると、渡り鳥の小鳥たちがやって来た。海を渡ってきた小鳥たちと、旅に出た自分とが重なる。

やっと来た電車に乗ろうと、旅行鞄を持つと温かくて驚いた。いつの間にか太陽は傾きを変え、足元に置いた旅行鞄は日向に出ていたのだ。温まった荷物を膝に抱きながら、晩秋の列車の旅を続ける――。

〈旅の荷は日にあたゝまり〉の温かな感触、〈あたゝまり〉の踊り字を使ったレトロな表記、小鳥の可愛らしい明るさ……それらが重なって、掲句にはどこか懐かしさが漂う。個々人の「旅の記憶」を呼び覚ましてくれる懐かしさだ。掲句から読者の脳裏に浮かぶ物語は、おのずと自分の旅の思い出と重なるから、私の鑑賞とはまったく違う場面となるだろう。

その懐かしさをもって、ふたたび旅に出かけたくなるような気持ちにさせる一句である。