2022年2月13日日曜日

【新刊】広渡敬雄『俳句で巡る日本の樹木50選』

【新刊】
広渡敬雄『俳句で巡る日本の樹木50選』

2022年2月11日金曜日

●金曜日の川柳〔須崎豆秋〕樋口由紀子



樋口由紀子






葬式で会いぼろいことおまへんか

須崎豆秋 (すざき・とうしゅう) 1892~1961

一昔前の葬儀風景を切り取っている。今や過去の景となりつつあるが、当時はふつうの家庭でも数十人の参列者があり、企業などの関係者の葬儀では百人単位の弔問があった。「葬式外交」という言葉まであったのだから、どこでも見られたごくありふれた景である。

しかし、この場面を句材として、川柳のカタチにしようとはなかなか思いつかない。「葬式」と言うと悲しみとか喪失感が先行し、その感情をまず優先させてしまうが、豆秋の目のつけどころは違っていた。ユーモアとアイロニーを加味して、葬儀のリアリティを強烈に確保しつつ、アトクサレなく、あっさりと川柳に仕上げた。関西弁のしゃべり言葉の不思議なちからを生かし、平板な文体に味を出している。『ふるさと』所収。

2022年2月9日水曜日

西鶴ざんまい #21 浅沼璞


西鶴ざんまい #21
 
浅沼璞
 

 水紅ゐにぬるむ明き寺       西鶴(裏二句目)
胞衣(えな)桶の首尾は霞に顕れて  仝(裏三句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「水温む」に「霞」で春の付合です。

「胞衣」は胎児を包んだ膜・胎盤・臍帯などの総称。「胞衣桶」はそれを入れる桶で、恵方を選び、縁の下や墓地等に埋めました。

「首尾」は事のてんまつ。「胞衣桶の首尾」で恋句になります。


句意は「胞衣桶のてんまつが霞の中から露見して」といった感じ。

前句の血の池地獄のイメージから、産血(うぶち)を連想しての付けでしょうか。
 
かなり飛躍があるようですが、そこは自註をみてみましょう。

「……いかに世間寺(せけんでら)なればとて、魚鳥を喰ふのみか、見事な者をしのび抱て、後にはやゝうませける事、旦那聞き付け、傘(からかさ)壱本にして追出されし。是は見ぐるしき取沙汰也」

当時、僧侶の肉食妻帯は、思うほど一般的でなかったようです。
 
意訳すると「……いかに世俗化した寺とはいえ、魚や鳥を食うだけでなく、美しい女房を隠れて抱き、そののち赤子を生ませてしまった。その事を檀家が聞き付け、慣習どおり唐傘一本だけ与え、追放――これは醜聞というほかない」といった感じです。

つまり「明き寺」となった原因を「胞衣桶」に求めたわけで、一種の逆付け(『婆心録』)。前句(原因)/付句(結果)とは逆に前句(結果)/付句(原因)となるので逆付けというわけです。【注】


では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

霞にて隠す産血のあまたなる 〔第1形態〕
    ↓
胞衣桶の首尾は霞に顕れて  〔最終形態〕

このように最終形態はやはり「産血」の《抜け》と解釈できます。
また「霞」は実景であると同時に、ベールの意味も含んでいるのは言わずもがな。

「〈霞に顕れて〉はわての十八番やで」

たしかに『大句数』(1677年)にも〈竜の息雲に霞に顕れて〉という第三がありましたね。そういえば雲も霞も天象、しかも聳えたなびく天象ですから、ふたつとも聳物(そびきもの)かと。

「そやけど、ベールいうんは何や」

やはり聳物のひとつです……(笑)。

「ふーん、霞めいたこと言いはるな」

● 
 
【注】連歌の四道における逆(向付けの一種)を「逆付け」という場合もあります。
 

2022年2月7日月曜日

●月曜日の一句〔西川火尖〕相子智恵



相子智恵







認証に差し出す瞳冬旱  西川火尖

句集『サーチライト』(2021.12 文學の森)所載

春は立ったが、冬の最後の句として掲句を。

デジタル社会の防犯システムの進化は早く、つい最近だと思っていた暗証番号やパスワードの時代から、すでに生体認証によるセキュリティも生活に馴染みのあるものとなった。
掲句は、人間の瞳の中の「虹彩」で本人確認を行う「虹彩認証」を詠んでいる。他にも「顔認証」や「指紋認証」「静脈認証」「声紋認証」など様々な生体認証技術があり、私自身もスマートフォンのロック解除には指紋認証を使っている。確かに便利ではあるが不思議なものだ。現代美術展「これも自分と認めざるをえない」が行われたのも、もはや10年以上も前のこととなった。

掲句、〈認証に差し出す〉の〈差し出す〉が見事な批評であり、哀しみである。私たちは私たち自身を機械に認証してもらうために、自分の一部である〈瞳〉を生贄のように差し出すのだ。しかし何のために?――私が私であることを、私以上に知らなければならない社会のために。その薄気味悪さは、カラカラに乾いた〈冬旱〉の空気のように、私たちの心と体から水分を奪い去っていく。

2022年2月4日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕樋口由紀子



樋口由紀子






痒いのは真後ろにあるプラスネジ

草地豊子 (くさち・とよこ) 1945~

生きているといろいろなことに出遭う。人間は無理しなくては生きてはいけない。けれども、困難や哀しみをそのままにしておくわけにはいかず、どうにかしなくてはならない。その対処の仕方、立て直しのための「真後ろ」であり、「プラスネジ」だろう。ネジを締めながら、あるいは緩めながら、どうってことない顔をして日々をやり過ごしていく。

しかし、時としてはそのネジが痒くなる。痒いというのは身体が抵抗してのことで、身体感覚をリアルに呼び起こす。ムズムズするのだろう。構えなく、本質をついていて、どこかユーモアラスである。決して「痛い」とは言わない。「からだ」と「こころ」を誠実に見つめている。