俳人さんの顔写真
さいばら天気
俳句総合誌に載っている俳人さんの顔写真の件。
いつも思うんだけど、短歌誌より俳句誌のほうを野暮ったく感じるのは、たぶんやたらと作者の写真を載せてるからじゃないかしら。たしかに、やたら多い気がします。野暮ったさの原因になっている気もします。なんなんでしょうね、あれは。
かわうそ亭 「俳誌雑感」より
そこで、まず、どれくらい多いのか、数えてみました(最近なにかといえば数えているような気がしますが、むずかしいことは書けないので、とりあえず数えるのです)。
数えたのは、小さな顔写真。投句審査の先生も含めましたが、座談会の模様を伝える胸から上の写真やグラヴィアページの肖像写真、イベント紹介の写真などは除きました。
『俳句』2007年4月号。去年の一冊を手に取り、数えました。最新刊ではない点、たいした理由はありません。無作為抽出法みたいなものです。
ぜんぶでなんと49箇所(49人)。
次は『俳壇』2007年5月号。やはり去年の一冊。こちらは39箇所。やはり多いです。
次は『俳句界』2007年5月号。驚いたことに、たった6箇所でした。前二者に比べると異様に少ない。念のため、最新号2008年12月号を数えてみました。すると30箇所。『俳句』『俳壇』ほどではありませんが、かなり多い。
ついでに今はなき『俳句研究』。終刊の半年ほど前の2007年5月号。これがなんとたった7箇所。それも、経歴、俳句作品に付随する短文に添えるかたちでの写真掲載ですから、誌面デザイン的に無理がありません。惜しい雑誌をなくしました。
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数えてみて、俳句総合誌には俳人さんの顔写真がすごく多いことがわかりました(って、最初からわかってたんですが)。
で、誌面への影響なんですが、たしかに、外観面の影響は甚大だと思います。かわうそ亭さんはさらに、「だいいち、言うてはなんですが、だいたいがみんな、お年を召されたじいさま、ばあさまが多いでしょ、誌面の見た目がいたって地味である。」とおっしゃっています。それはそうなんですが、顔写真の平均年齢が下がったところで、野暮ったさの質が変わるだけというか、顔写真の顔ぶれが若くなるぶん冗談ではすまない野暮ったさに発展するというか…。
では、プロが撮影した写真なら、誌面が洗練されるのかというと、そうでもない気がします。俳句や散文に顔写真がいちいちついてまわるという、このスタイルそのものが醸し出す「何か」があるのでしょう。
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「自分の写真を載せてもらいたい」という作者、「その俳句/散文を書いた人の顔が見たい」という読者はどちらもあまり多くない気がします。写真の顔の人たちも「載せたくて載せているんじゃない」とおっしゃる方が多そうです。読者としての私個人についていえば、別に見たいとは思いません。というか、あまり目をとめていないような気もします。知り合いだと、写真映りと実物とを比較したりしますが(実物のほうがいいのに、と残念に思うことが多い)、その程度。
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さて、やたら多いという以外に、俳句総合誌の顔写真には、誰でもすぐに気づく法則があります。
数十句、あるいは見開き2ページを使って俳句作品が掲載されるケースでは、顔写真は載らない。これはどの雑誌にも共通しています。顔写真が載るのは、数句、多くても10句くらいまでのケースです。
別の言い方をすれば、大家や有名俳人の俳句作品や文章に顔写真が付けられることはほとんどありません。つまり、写真の有無とは、仏壇、もとい俳壇(これ、猫髭さんのネタ)での位置づけと深い関係があるのです。
俳壇における地位や存在感(あ、ここ、笑うところじゃないですよ)を高めていくとき、次のようなパターンがあるのではないかと思います。
1 結社で賞をとるとか、若いわりにがんばってるとか、あるいは結社ですごく長くやってるとかで「結社内有力作家」になり、総合誌から声がかかる。このとき、写真付きです。
2 結社以外だと若い人に限定されますが、俳句雑誌の賞への応募や有力俳人との交流などから存在を知られるようになり、総合誌から声がかかる。このとき写真付きです。
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やがて、彼ら/彼女らのうち幾人かは、さらに地位や存在感が高まります。ある人は結社主宰となり、あるいは大結社の女性取締役あるいは番頭さんみたいな地位になり、あるいはその他もろもろで、「名の通った俳人」になる。そのとき、写真ナシで数十句が掲載されるようになるわけです。
してみると、入館証に写真が付いているようなものとも言えます。そのうち「顔パス」になって「証明写真のような写真」が胸からとれる。もちろん例外はたくさんありますが、パターンとしては、こんな具合かと。
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総合誌に載る俳人さんたちの顔写真という話題から、どうでもいいようなことをいろいろと、申し訳なかったですが、このように話題が広がるということからして、因習としてこれからも長く残ってくれたほうがいいのかもしれません。
それに、見た目に野暮ったい、といっても、あまり気にすることもありません。だいたいが、実際の俳句世間が野暮ったいのに、雑誌のデザインだけ洗練されても、それはそれで妙なものですから。
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8 件のコメント:
俳句に作者写真、要らないです。前々から私もそう思ってました。
恥ずかしながら、何度か当方の写真も出たりしてますけど、皆様へのお目汚しになるばかりか、かなり重度の自己嫌悪に陥りました。
かつて表の週俳に、たぶん私の写真をほしがる人はいないだろう、という安易な見込みの元に発言したことがありますが、あればあったでこんなもんいらん、なければないでちょっと見たいというわがままな気分があります。と言っても、写真のページが結社創立何周年かのパーティー会場ばかりだと、もう勘弁してくれになります。
結局、「書は人なり」を信じていないにしても、どんな書体で書く人なのかを知りたいと同程度の興味で、顔を見てみたいということです。
古い話になりますが、雑誌「太陽」の別冊が俳人の特集を何度か行いました。当然俳人の顔写真が、これでもかこれでもか、と言うほど掲載されていました。顔写真を効果的に使うとなると、俳句雑誌でちょろちょろと使うのでは間に合わないのかも知れません。
性別とおおよその年齢を伝えるという機能があるんでしょうね。それが俳句や散文とどう関係があるのかは別にして。
俳句と顔写真といえば、年鑑ですね。
『俳句』誌の年鑑は無しですが、『俳句研究』誌は結社紹介欄にあります。
さて、いつも不思議に思っていたのですが、毎年同じ写真が載っているということ。皆さんの生年月日からお歳を推定して、どう考えてもかなり前のものではと思われる方もおられます。
これなども俳壇の七不思議に入れてもいいのではと。老婆心ながら。
私個人としては写真はあってもなくてもどうでもいい派ですが…
どうもです。
たしかに「俳句研究」にはあまり作者の顔写真がなかったような気がしますね。ああいう誌面の方が断然いいと思うんだけどなあ。
作品と顔写真がセットになって掲載されるスタイルといえば、わたしは社内報なんかを連想します。ま、俳句雑誌そのものが、一種の社内報みたいなもんかもしれませんけど。(笑)
音彦さん。
耐用年数10年やそこらは楽勝、というのが俳句世間一般の常識のようです。
datuteiさん。
社内報。なるほどです。何かに似ているよなあ、と考えていたのです。9割は笑顔という点も共通。
天気さんへ
「耐用年数」って、凄すぎです。
みなさん、よく耐えてらっしゃいますね。(笑)
俳人留照片 二首
調寄“七言絶句”
墓地元来多墓標, 墓地には元来 墓標多く
俳人相競作俳豪。 俳人は 相い競いて俳豪とならんとす
善哉照片留遺影, 善き哉 照片(=写真) 遺影をとどめ
示範後生吟志高。 範にして示せり 後生に 吟志の高きを
(中華新韵六豪の押韻)
調寄“少年游”
俳人連袂,徘徊梅苑,共到鏡池頭。悦目瓊姿,横枝映水,綴玉帶閑愁。
短詩堪作乘清興,依舊競吟喉。相撰人天,大家排列,照片一張留。
(中華新韵七尤の押韻)
俳人 袂を連ね,
梅苑を徘徊し,
共に到る 鏡池のほとり。
悦目の瓊姿,
横枝を水に映し,
玉を綴りて閑愁を帯ぶ。
短詩 作りて清興に乗るに堪え,
旧に依りて吟喉を競う。
人と天をあい撰し,
大家排列(みんなで整列)
照片(=写真)の一枚を残さむ。
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