思うところあって昼ごはんは西瓜
さいばら天気
まずは映像美の世界を。
●ほたる 2009-6-6 from けふえふえふとふてふ
http://yaplog.jp/ef_ef/archive/174
嗚呼、この写真、いいですねえ。儚うございます。
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ところで、RSSリーダーには、目当てとは違うものも引っ掛かってきます。釣り針には魚よりも長靴ばかりという感じですが、時折、おもしろい長靴も。例えば、こんなの。
http://writer.jobportal.jp/jobinfo/show/id/17
在宅句評? ……募集記事に曰く…
弊社発行誌に投稿された俳句や短歌に評論文を書く文芸ライターを大量募集します!ウラハイの6月11日の記事「「あなたの俳句を本にしたい」? ふむふむ」(↓)と併せて読むとコクが出ます。
批評や酷評はNGです。作者の意向をくみとりつつ、良い点をみつけて評論してください。
その他、俳句に含まれる季語や、漢字の間違い、現旧仮名遣いの混在などを指摘できる方は優先します。
http://hw02.blogspot.com/2009/06/blog-post_11.html
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●小川軽舟『現代俳句の海図』 2009-6-9 from ono-deluxe
http://www.kanshin.com/diary/1847370
要するに、俳句は「歳時記という健全なフィクションに接する楽しみ」の文芸として、今後も進化するだろう。書き手の小野さんは、季語/歳時記の信奉者(という言い方はヘンですか?)の立場が一貫。季語/歳時記が偉大なリファレンス(参照)であることは認めますし、そこに寄り添う、そのこと自体が「健全」な俳句愛好の態度であろうとも思います。しかし、小野さんが他で用いる「詩嚢」という語には若干の引っ掛かりを感じます。フィクションですから、現実世界がどうであろうと、嚢(ふくろ)の中は豊かなまま保たれる。俳句作者は、そこに手を入れるだけでよい、という一種の楽観とも受け取れ、楽観主義を否定するのではないのですが、季語が万能調味料のようになってしまっては、作る側はともかく、読者には少々退屈なことになってくる気もします。
季語と句の関係、季語と作者の関係に、更新・刷新がはたらいてこそ、という部分もあります(小野さんはそれも込みで季語/歳時記を捉えていらっしゃるのでしょうが)。ここのところは、先週までの話題、≪ポストモダンと俳句≫とも関わってきます。
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●SUNAOSUNAO 2009-6-12 from wwwqpwww
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10277937037.html
この記事で紹介されているマンガがとてもおもしろい。
Webで読める「スナオとコーラ」
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●やれやれ 2009-6-11 from 僕が線を引いて読んだ所
http://d.hatena.ne.jp/mf-fagott/20090611
村上春樹に頻出する「やれやれ」に関する随想。
ところで、話題の『1Q84』にはこの「やれやれ」は出てくるのだろうか。もし頻出するようなら(多分そんなことはないだろうと思うけれど)、きっともの足りない小説だと感じるだろう。「やれやれ」は世渡り上手な賢い大人の台詞だが、それは思考停止の宣言でもあるからだ。で、「1Q84」で「やれやれ」は激減したそうです。↓↓↓
http://rose-music-etc.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/1q84_dfb2.html
もう一箇所。
インターネットというのは、自分が考えようとすることは既に別の誰かが考えているのだということをあっという間に知らせてくれる。とってもベンリでありがたいツールだ。まったくおっしゃるとおりです。とりあえず「ググれ」と。
「グーグル先生」などと呼ぶ趣味はありませんが、便利なものを便利に使う。それだけの話です。
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そういえばひと頃(現在も、か?)俳句世間では、インターネットを(いわゆるリテラシーを含め)ふつうに使えるところまで行っていないような人が、インターネットについてなんやかんやと語っているのを目にしました。そういう記事は、世間で流通している古ぼけた「インターネット像」と自分の狭隘な使用範囲で「思ったこと」が材料なので、悲惨に陳腐。
書くのはかまわないのですが、自分の知らないことを書くときにはそれなりの書き方があります。運転もおぼつかないのに、ドライヴフィールがどうの、クルマの伝統と歴史がどうのと言い出すようなもので、「そんなことはいいから、ちゃんと前見て運転しなさい」という話。
あ、私? 私はもちろん、おぼつかないので、どうやれば便利にうまく使えるか、それだけを考えております。ほら、この「ウラハイ」や「週刊俳句」関連とかで、ね。
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2 件のコメント:
もちろん、ネットの便利さは功罪相半ばしているわけで、だから皮肉を込めてカタカナの「ベンリ」。
とっくに誰かが言ってるかもしれないと考えて、情報発信をためらってしまってもだめですよね。
はい。そう思います。
「誰も言っていない」ことなんて、おそらく存在しないですよね。
誰も言っていないユニークなことを自分は言っているのだという思い込みは、稚気、あるいは狂気に属することでしょう。
自分(の考えetc)が、どのように社会的なものかを知ったうえで「発信」するのと、そうでないのとはまったく違うと思います。
簡単にいえば客観視・相対化のためのツールのひとつとしてネット(検索)は便利なものと思います。
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