反・実用 ~『俳コレ』竟宴シンポジウムを聞いて
西原天気
昨年2011年12月23日、『俳コレ』竟宴に行ってきました。シンポジウム第2部のテーマは「撰ぶこと・撰ばれること」。上田信治(コーディネーター)が進行。パネリストには筑紫磐井、櫂未知子、榮猿丸、村上鞆彦、依光陽子、矢口晃、松本てふこ、福田若之の各氏という大所帯。上田信治さんの捌きが良くて、この手のシンポジウムにありがちな「ダンドリどおり発言が何巡かして終わり」、あるいは「討議がぐじゃぐじゃになって空中分解」、どちらとも違う、おもしろいシンポでした。
「撰ぶこと・撰ばれること」というテーマ設定は、『俳コレ』が他撰から成るという事情からの発想ですが、話は、いきおい、ふだんの「選句・被選句」、つまり結社所属なら、主宰(先生)の選をどう捉えているかといったところへ展開。聞いていて、みなさん、それぞれ自分なりのスタンスを確立しているのだなあ、と感じ入りました。
逆にいえば、そうでなければ(自分のスタンスがふらふらしっぱなしでは)、俳句を作り続けることはできないということでしょう。同時に、スタンスは、人それぞれでいい、ということか、とも思いました。
(途中、進行役の上田信治さんがしきりに「おもしろいですねえ」とひとりごとのように言っていたのは、その「人それぞれ」な事実をいまさらながら確認できたことが「おもしろい」のだったと想像しました)
ところが、その後、話は「実用」へと傾いていきます。実用というのは、つまり、結社に所属する(師の選を仰ぐ)こと/そうではないことの、有利・不利(アドバンテージの有無)、メリット・デメリット、得かどうか(ベネフィットの有無)といった話題です。
俳句を作るのに、どちらがいいか、どれが最適か。この切り口は、この数年くりかえし話題にのぼる「(特に若い人が)結社に所属すべきか否か」という話題(やや耳タコ)とセットになっている感があり、話の流れとしては自然です。
俳句を作っていくうえで、自分にとってのアドバンテージやメリット、損得を考えるのは、至極当然。そう考える人は多いようです。でも、そう考えない人もいます(例えば私)。
では、アドバテージやメリット、損得じゃなければ、何が基準か。それはもう人それぞれで、快・不快かもしれないし、仁義かもしれないし、なりゆきかもしれない。
アドバンテージやメリット、損得をうんぬんするとなると、例えば、結社に所属していない若い俳人・福田若之さんは、結社の「良さ」を突きつけられて、「そんなことなら、仲間内の句会でも得られる」と抗弁するしかありません。
この応答は、しかし、聞いている私からすると、すこし不満でした。「アドバンテージもメリットも得も要らない」と答えてほしかったところです。そうした「実用」的なもの、一切と無縁なまま、俳句を作っていくのだという姿勢を示してほしかったところです(個人的な夢想ですよ、もちろん)。
自分の作句にとってどのような環境(どの結社に所属し、どんな人の選を仰ぐか、等)が最適か。その正解を選んでいくことは、賢明な行動ではあるでしょうが、美しい行動ではありません。別に美しくなければいけないってことはないのですが。
結社や同人に所属すること/しないこと、選を仰ぐこと、さらには句会をやること、俳句を読むこと、それらをみずからの「実用」の観点で捉えることは、必要ではあっても、それに大きく覆われてしまうようでは、ちょっとさびしいのではないかなあ、と。
そんなことを思いつつ、市ヶ谷の夜が更けていったですよ。
※俳コレ竟宴の模様については、邑書林のリンク集でどうぞ。≫こちら
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