2019年7月8日月曜日

●月曜日の一句〔新谷壯夫〕相子智恵



相子智恵







心持傾きしまま水中花  新谷壯夫

句集『山懐』(俳句アトラス 2019.6)所載

安っぽい水中花の、安っぽさの極みのような句で面白い。水に入れると開く、昭和らしい紙製の水中花を想像する。土台が水の底で心持ち傾いていたのだろうか、あるいは紙のクセか、少し傾いて水の中に立っている。

〈傾きしまま〉なので、いつ見ても直されることもなく、少しだけ傾いたままなのだろう。なんとなくトイレの小窓の桟にでも置かれていそうだな、と想像する。置いてあることすら忘れ去られてしまっているような、気にも留められていない水中花。

行きつけのお店だろうか。あるいはよく行く誰かの家か。心持傾いていることに気づいてはいても、自分では直せない他者の水中花。でもいつ見ても〈心持傾きしまま〉で、その安っぽさに何だか心が和むのである。

2019年7月6日土曜日

●土曜日の読書〔砂漠の約束〕小津夜景




小津夜景







砂漠の約束

今度の土曜日、遊びにいらっしゃい、とマリーが言った。

さいきんマリーは90歳になった。武術を習ったり、油絵を描いたり、朗読をしたり、毎日いそがしい。じゃあ私、レモンケーキを焼いてゆきますので、そのつもりでいてください、と約束する。

土曜日の昼、マリーのアパートを訪れる。いま前菜を運ぶからテーブルで座っててね。ビズをして、マリーが言った。私はそれを無視してずかずかと台所に入り、前菜の皿をテーブルへ運ぶ。大きな砂漠の写真が居間に飾られている。

「きれい。これ、どこの砂漠?」
「アルジェリア。私の住んでたとこ」
「へえ!」
「大昔の話よ。結婚と同時に渡って、戦争で逃げ回って、あのときはさんざんだったけど、また行きたいの。若い娘だったころ暮らした風景の中に、もういちど身を置きたくて」

90歳の女性にこのようなことを言われた場合、いったいどう返すべきか。私は、たぶん正解ではないなと思いつつ、

「きっと変わってないわ。どんなに変わっても、かならず当時の面影があると思う」

と言ってみた。するとマリーは笑って、

「ごめん。私は思い出より憧れの方が好きなの。つまり、どのくらい都会になったかしらと想像して楽しんでるわけ」
「そっか。砂漠以外はきっとずいぶん変わっただろうね」
「砂漠だって毎日変わるわよ。海みたいに」
「うそ。そんなに?」
「変わる変わる。こんど一緒に行きましょう」

思い出より憧れの方が好き。これは登山家ガストン・レビュファの言葉で、昔のフランス人ならたいてい知っている。
山脈というものは、はっきりした輪郭を持ち、見る人を圧倒する緻密な物体である。これに反して、砂漠、ことにサハラ砂漠は広大で、いたる所で同じ景観を有するかと思うと、いたる所で別の姿を持つ。いわば海のように、移動性を持つ。(…)砂の壁は厚い、不透明の壁で、前進して来る。自然は好きなように行動し、地表を一変する。それは新しい雪が地表を一変するのと同じで、前日に見た地表の姿は、風がやんだとき、すっかり消えている。(ガストン・レビュファ『太陽を迎えに』新潮選書)
今日はお招きありがとう。こちらこそ楽しかったわ、また月曜に道場でね。マリーのアパートを出て市バスに乗り、車窓から海を眺めていて、とつぜん喉がつまる。憧れというのはなんと素晴らしいものだろう、と心が震えたのだ。


2019年7月4日木曜日

【俳誌拝読】『鏡』第32号

【俳誌拝読】
『鏡』第32号(2019年7月1日)


A5判、本文44ページ。発行人・編集人:寺澤一雄。

同人諸氏の俳句作品より。

夜は五月の差し交はす枝のつや  佐藤文香

蘭鋳と別れ人とも別れけり  大上朝美

古着屋に新たな古着夏きざす  井松悦子

火蛾の来て玄米パンを甘くする  倉田有希

母鹿のこゑ金の螺子巻くやうな  笹木くろえ

砂鉄立つ十連休の終ひの日  谷雅子

はつ夏のウクレレは木漏日のやうに  佐川盟子

草藤のそよぐ水辺をそよぐ人  羽多野令

欄干の深傷負ひたる春連夜  八田夕刈

そうめんの中のピンクや白い家  手嶋崖元

加工してあげる写真やチューリップ  東直子

翌朝のカレーのやうな春のひと  三島ゆかり

春陰のスーツノーネクタイ裸足  村井康司

蒲公英の絮のどれもがどこか欠け  森宮保子

金戻るコインロッカー百千鳥  寺澤一雄

(西原天気・記)

2019年7月3日水曜日

【俳誌拝読】『ぶるうまりん』第38号

【俳誌拝読】
『ぶるうまりん』第38号(2019年6月22日)



A5判、本文88ページ。編集発行人:山田千里。

特集「小説家と俳句」は20ページを割いて充実。以下、書き手と取り上げた作家を挙げる。

川村蘭太:多田裕計、及川木栄子:吉村昭、今泉康弘:田辺聖子、瀬戸正洋:尾崎一雄、茉杏子:川上弘美、井東泉:子規周辺、土江香子:又吉直樹、東儀光江:寺田寅彦、山田千里:瀬戸内寂聴、三堀登美子:藤沢周平、平佐和子:吉屋信子、生駒清治:久保田万太郎。

(西原天気・記)

2019年7月1日月曜日

●月曜日の一句〔乾佐伎〕相子智恵



相子智恵







永遠に開く花火を一人探す  乾 佐伎

句集『未来一滴』(コールサック社 2019.8)所載

〈永遠に開く花火〉など現実には存在しない、ということは分かっている。一瞬の儚さこそが花火だということは。だが〈一人探〉さずにはいられないのだ。〈一人探す〉がきっぱりとしていて、それは詩へ向かう決意のようにも読める。

〈ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火〉をふと思い出す。林火の、ひとりでに静かに溢れ出てきた抒情的な永遠の花火とは違い、掲句は自らそれをつかまえにいく強さがある。林火はそれに出会えていて心が温かくなるけれど、掲句には、今はそれが見つかっていないという泣きたくなるような寂しさがある。

一人は孤独だけれど、ひとりひとりの胸の中にしか〈永遠に開く花火〉はないことを、古今の二人の俳人は痛いほど分かっている。だからどちらの花火の句も切なくて、美しい。