「女性が担う俳句の未来」をめぐって
〔これまでの流れ〕
『俳句』2008年7月号掲載の特別座談会「女性が担う俳句の未来」を、週刊俳句第62号および第63号の「俳誌を読む」が取り上げる(A、B)。その後、反論(C)、反論への反論(D:今回「あかるい俳句」に掲載の記事)。
A 天気;「『俳句』2008年7月号を読む」…週刊俳句第62号 2008-6-29
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B 猫髭;「『俳句』2008年7月号を読む」…週刊俳句第63号 2008-7-6
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C 天気;ブログ「俳句的日常」に「B」への反論を書く 2008-7-6
「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」
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D 猫髭;「C」へ反論 =以下に掲載 2008-7-8
「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」への反論
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猫髭
1. 高柳克弘が全般に「技術」に偏重した論を展開しているという点について
>これを読むと、司会の高柳克弘が全般に「技術」に偏重した論を展開しているように思う人がいるかもしれないが、「技術」うんぬんはもっぱら、星野立子にまつわる箇所。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
いや、高柳氏は最初からそういうシナリオを用意しています。司会がシナリオを用意しないなどありえないし、でないと司会の意味は無い。最初の章は『私が影響を受けた女性俳人』というテーマだから、高柳氏は聞き役に徹しています。しかし、第二章『「台所」=「その人の居る場」』では、p68で…
台所俳句は俳句の敷居を低くしたという意味で大きな功績もあると思うのですが、一方で、女性俳句と言えば身辺詠だというふうにどうしても固定化してしまった。言葉の技術や修辞ということがおきざりにされて、素材として身辺を詠めばそれですむという風潮が生じてしまったような印象があります。
…と語っています。つまり、最初から高柳氏はそういうテクニカルな話題へ水を向けようというシナリオを持って座談会の場へ最初から臨んでいます。その場で思いついた事ではないでしょう。彼なりに調べた結果が、そういう俳句史的に何ならかの毀誉褒貶を明らかにしようという意図に辿り着いた上での発言です。ただ、ろくに調べていないから「ような印象があります」という歯切れの悪い言い方になる。
高柳氏が駄目だなと思うのは、こういう印象に過ぎない事を、テクニカルな話題で反らす事で、司会者だったら、こういった話題に対して裁量を持った人物、というか渦中にいた生き証人も呼んだ方がいいと編集部を説得しなければ。
今井千鶴子さん。彼女は星野立子の『玉藻』の編集人で、虚子から、寝ても覚めても『玉藻』の企画を考えなさいと言われて、虚子を囲む「研究座談会」を企画した張本人。虚子と立子の側近にいた生き証人で、今回の『鑑賞女性俳句の世界』では娘の肖子さんが鑑賞に参加していますが、今井千鶴子さんを囲めば、今回のような遠巻きな話ではなく、もっとリアルな話が聞けたでしょう。
わたくしは虚子の文章は苦手で、読んでいると頭が痛くなるのですが、唯一、「玉藻」に関係した文章だけは普通に読めるし、また虚子も、「研究座談会」を含めて、率直に答えていると思うので、その企画と速記を担当していた千鶴子さんをなぜ呼ばないのか、編集部も司会も工夫が足りないとしか思えません。
個人的に「言葉の技術や修辞」についても、明治俳壇の羅針盤と言われた正岡子規の『俳諧大要』で…
万事を知るは善けれど知りたりとて俳句を能くし得べきにあらず。文法知らぬ人が上手な歌を作りて人を驚かす事は世に例多し。 俳句は殊に言語、文法、切字、仮名遣など一切なき者と心得て可なり。しかし知りたき人は漸次(ぜんじ)に知り置くべし。
…と述べられていますが、今でもこの本はわたくしのバイブルなので、「言葉の技術や修辞」がおきざりにされたから云々は、高柳氏の先入観としか思えませんでした。
2. 立子の「技術」について
>高柳氏は、立子に、いわば「技術を感じさせない高度な技術」を見て取るが、宇多氏・西村氏は、それを技術とは見ず、議論は噛み合わないまま終わる。両氏は、技術ではなく資質・天与のものと捉え、それゆえ立子の「技術」という視点に賛同できぬように見える。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
虚子の女流俳句観が披露されている「立子等によつて拓かれた」という序が付いた『立子句集』を読めば、高柳氏が言った「そこにチョコレートがあったから、そのまま句に詠んだふうに見えますけれど、実は周到な配慮の下に付けられている」という詠み方ではなくて、まさしく「そこにチョコレートがあったから、そのまま句に詠んだ」だけだというのがわかるはずです。
立子が自分の句について色々言われた時に、しかも虚子に、「わたし、あんまり頭の中で作らないのだけど」と素っ気なく答えたのが面白くて記憶に残っているのがアリゾナで詠んだ次の句。
広野行く幾春時雨幾夕立 星野立子
わたくしもアリゾナへは仕事で何度か行ったので、これ、そのまんま詠んだというのがわかります。確かに、頭では詠めない。季重ねがどうこう頭でぐるぐるするから。見て、そう感じたので、そう詠んだだけ。
どちらかというと、素十の句の作り方に似ていると思います。
見たまんま感じたまんまを詠むだけ。ただしずうっと見続ける、馬鹿みたいに、季節まで越えて。
春の月ありしところに梅雨の月 高野素十
ただ、どう読むかは、読者それぞれの世界で読めばいいので、「言葉の技術や修辞」から表現の妙を分析的に読む事も読者の自由で、それで作者の意図とは離れて作品が飛翔すれば良い読者を得たということになり、作品も幸せ者ということになりますが、高柳氏のように「巧まずに作っているのかもしれませんが」と言っておいて「巧みです」と落とすのは、わたくしは愚だと思います。
3. テクニカルVSスピリチュアル
>(すべてを井戸端会議化してしまう「オバチャン性」を、猫髭さんは「スピリチュアル」と呼んだのだろうか?)(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
高柳克弘が「言葉の技術や修辞」と言ったテクニカルなことに対して、宇多喜代子が…
台所とは生きるための、水と火を使う根源的な場所だから、そこに足を据えて、男であれ女であれ句を作るという意味での「台所俳句」はまことにいい言葉です。
…と言った発言をスピリチュアルと呼びました。
男流はんはソトメシが多いのですが、女流はんは台所というウチメシが多いので、金出せば食えるものはソトメシでと、テクニカルに選択できますが、ウチメシは、いかに素早く安く美味しい物を作るかが原則で、言い換えると、毎日の繰り返しに堪える物だけしかウチメシでは生き残れないので、全世界共通な「おふくろの味」といった普遍性を持ったスピリチュアルな物が台所にはあるということです。
吉本隆明が、「私が料理を作るとき」という話を料理雑誌で書いているのを昔々見た時に、吉本隆明の奥さん(句集を二冊出してる俳人)が体が弱いので、彼が何十年も台所にずっと立って、世の中のウーマンリブの連中を全員打ち殺したいとか思いながら炊事する話で、また、彼の得意料理が、じゃがいものソース炒めとか、キャベツ丸ごとベーコン挟み茹でとか、ネギオカカ御飯とか、手早く出来て質素だけれども美味しかったので、覚えているのですが、そのとき、「料理の味で家族をリードしていたら、その家族はどんな危機があっても最後には乗り越えられる。しかし、どんなに性格が一致しようが性的に一致しようが、料理の味で家族をリード出来なかったら危機のときに破綻は避けられない」といった趣旨を述べていた事を、この宇多氏の発言で思い出しました。台所はそれだけ重要な場所なのだと。
吉本曰く、手のかかる料理、ママゴト料理もダメである、なぜならそれらは日常の繰り返しに堪えないから。
最近はコンビニもあるし、自炊は、若い男流はんも女流はんもしなくなったので、外食中心になると「台所とは生きるための、水と火を使う根源的な場所」というのはわからなくなりつつあると思いますが、わたくしも台所に立つことが多かったので、ウチメシはかなり重くとらえています。
4. 実年齢と俳句年齢
>何かについてモノを言う、とりわけ「意見」などではなく批評・分析的なモノを言うとき、実年齢など、関係があるのか? 誰が言うのか、ではなく、何を言っているのかが問題なのだ。(「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」)
その通りです。高柳氏は、まだ若いし、これからだというエールを込めて書きました。反論は「シンデレラにはもう戻れない」方から来ると思いましたが、天気さんからとは!
この人生時間の例えは、熟女のくどき文句に使う明治の粋本で読んだと思うのですが(特に三十台で独身の女性に効果的だそうです)、わたくしの周りは野郎ばかりなので、若いエンジニアが上司に叱られて落ち込んでいる時に使います。だってお前の人生時間始まったばかりだよ、上司なんか、もう定時過ぎて寝る時間だ、人間もナマモノだ、消費期限はどんなに向こうがエラクてもお前より先に切れる、というように使います。
>この手の座談は、人がまじわるのではない。批評的言語が交叉するのだ。そうでなくてはおもしろくない。(同上)
批評的言語が話せる俳人というのは余りいないのではないかと思います。
高柳克弘は『凛然たる青春』は面白かったけれども、今回は彼の守備範囲を外れた分野としか言い様がないと思いました。
>ちなみに、実年齢28歳の高柳氏は、俳句年齢82歳くらいだと、私は思っている。その意味でも、猫髭さんのおっしゃる「まだ9時台」という設定にはまったく首肯できない。 (同上)
御覧の通りです。
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2008年7月8日火曜日
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2 件のコメント:
猫髭です。吉本隆明の記事を読んだのは随分昔なので、「キャベツ丸ごとベーコン挟み茹で」なんて余り質素じゃないよね。これベーコンじゃなくて豚肉が吉本オリジナルだと思いました。フランス料理のポトフは牛肉を使うところを、吉本は貧乏だったので、安い豚肉を挟んで工夫したのではないかと今気付きました。
ベーコンは、ドイツ風ですが、カミサンのハイカラお祖母さんに教わった猫髭バージョンでした。
美味しそう!
豚肉は白菜まるごと1個に挟みこんで蒸す、というのがありますね。
キャベツならベーコンが美味しそう!
ついでに無駄話。ポトフは、燻製スペアリブでやったえますが、これは本格ではなく「ポトフ風」なのか、と。
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