四童さんに連句について聞きました。
連句【れんく】
俳諧体の連歌、すなわち俳諧のこと。俳諧の発句(第一句目の長句)が独立して俳句と呼ばれるようになった明治以降、特に連歌や俳句と区別してこの呼称を用いる。原則として複数で五七五の長句と七七の短句とを交互に付け連ねるもの。歌仙(三六句)・世吉(よよし)(四四句)・百韻(一〇〇句)などの形式がある。(三省堂「大辞林 第二版」)
歌仙【かせん】Q 連句を知ったのはいつ頃ですか?
連歌・俳諧で、長句と短句を交互に三六句連ねたもの。懐紙二枚を折って用い、一折目(初折)の表に六句、裏に一二句、二折目(名残の折)の表に一二句、裏に六句書く。芭蕉以降盛んに行われた。(同)
四童(以下略):1977年か1978年くらいに青土社から出た『大岡信著作集』の何巻かの月報です。一部で語り草になっている「どさりと落ちる軒の残雪」にしびれました。
その頃はまだ俳句実作者ではありませんでした。俳句実作者になったのは1994年。連句はもっと遅く、参加した『恒信風』という俳句同人誌に、東直子さんの捌きで毎号同人の誰かと両吟歌仙を巻くというコーナーがあり、2000年4月に発行された号でご一緒させて頂いたのが最初です。
Q BBS時代の四童珈琲店で歌仙をスタートさせたのですね。
2001年のほとんど同じ時期にホームページを立ち上げた浦川聡子さんが「リレー俳句」という今でも続いている人気コーナーを始めたので、じゃあ、こっちはオーソドックスに連句でも巻こうか、という程度の動機ではじめました。
Q 連句と俳句はやはり違いますか?
これは、セックスとオナニーくらい違います。付け合いというのは、コミュニケーションであり、人間と人間との快楽です。
Q 連句をはじめてから、つくる俳句に変化はありましたか?
二物衝撃という技法に非常に敏感になり、また逆に、一物で十七音という長さを大切にすることにも敏感になりました。
Q 歌仙を取り仕切るホスト役ともいうべき「捌き」、客人たる「連衆」、やるならどっち?
連衆のほうが好きです。人さまの句を捌くのは、ほんとうはそんなに好きではないのですが、自分が巻きたいときに、人を集めて捌きをさせていただくくらいです。
Q こんな歌仙はイヤだ!(鉄拳という芸人さんのネタです)
ネットでやっていると、付句が数か月くらい平気で途切れることがあります。忍耐強く待つしかないのですが、さびしいです。
Q 連句のおもしろさとは?
付句を得て自分の句がぜんぜん別の光を帯びるような新しい発見を、連衆が相互に体験する訳です。また三句の渡りという局所性の中でそれが起こり、全体はほとんど意味がないという、刹那的な「いま、ここ」の醍醐味は参加した人でないと分からないと思います。
近代芸術だか第二芸術だか知りませんが、参加した人でないと分からない快楽というのは、連句の場合ぜったいあります。俳句とか連句とかを芸術だと思うから、前近代的とかの話になるので、他者とのコミュニケーションだと思えばいいのです。
Q オススメの参考書を教えてください。
浅沼璞『「超」連句入門』をお勧めします。現代人の我々は芭蕉の時代の式目に縛られたってしょうがないわけで、精神だけを受け継いで応用していけばいいと思うのですが、浅沼璞さんの本にはいろいろヒントがあるように思われます。
ありがとうございました。
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2 件のコメント:
Q 連句と俳句はやはり違いますか?
これは、セックスとオナニーくらい違います。付け合いというのは、コミュニケーションであり、
人間と人間との快楽です。
とても不快感を持って読みました
私は友人に誘われてネットで半歌仙ですが数回参加したことがあります
色々な決まりの中、連衆や捌き役のリードによって楽しむことが出来ました
連句と俳句の違いをセックスとオナニーくらい違うという唐突な説明に
どのくらいの人が納得できるのでしょう
連句もセックスも「人間と人間との快楽」だという大雑把な把握も理解しがたいです
まさか「受け」を狙ったわけではないですよね
(笑)がありませんから・・・
(笑)がなければ「受け」を狙っていないというのはおかしいと思います。
バスター・キートンしかり。
連句・俳句とセックス・オナニーという二物衝撃を狙った冗談だと私は解釈しました。
唐突さ、納得のいかなさ、大雑把さにそのふざけが充分にあらわれてます。
俳句に(笑)をつける人もいないでしょう。
冗談に(笑)をつける方がおかしいです。
笑ってください、これは冗談ですよと言われないと笑ってはいけないことになります。
(笑)をつければ面白がらなくてはいけないことになります。
一人でするのと、他人とするのは違うという話を、詰将棋をするのと将棋をさすのくらい違うという説明でも、一人でするか他人とするかでは同じ説明ですが、不快感をもたれるのでしょうか。
俳句・連句以上に長い歴史を人間の営みに欠かすことのできないものとして存在してきたはずです。
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