2011年3月24日木曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】空疎なスローガン 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
空疎なスローガン
小野裕三「今回の大地震に関連して思うこと~次の時代の日本へ。次の時代の俳句へ」の違和感について

西原天気


大震災(津波被害を含む。以下同)と原発危機。当然ながら、この2つは、大きく質が異なります。地震も津波も人類が生まれる前からあったものですが、原発の歴史はこの50年ほど。いま生きている世代が手にしたものです。そして、いまこのときも、私たちは原発の電気を使っています。私たち全員が原発の利用者なわけです。

このさき数週間か数十年か原発がもたらすであろう厄災は、過去数十年の私たちの生活と密接な関係にあります。地震や津波といった生活の「外」からもたらされるものとはワケが違う。

福島原発の事態の収束後には、いろいろなことの見直しがされるはずです。それには、「私たちの生活」を見直すことも含まれます。

小野裕三さんの「今回の大地震に関連して思うこと~次の時代の日本へ。次の時代の俳句へ」(週刊俳句・第204号)も、この「見直し」が出発点になっています。

≫http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/03/blog-post_8950.html

これまでどおりではダメだろう。私もそう思います。ところが、小野さんの記事には、なんだか、ひっかかるところがたくさんあります。

小野さんは、次のように書きます。
今回の原発の問題であらためて思うのだが、今の日本人(もしくはその他の先進国)の生活は過度に電力に依存している。そして原発は、その生活様式を支えていた。
私たちの生活が電力に依存している。これはそのとおりです。さきほど私も書いた。原発危機のスタート地点は、そこにあります。
しかし、一方でこれもよく思うのだが、俳句をやっていると、そういった生活スタイルとは違う生活様式が少し前までの日本にあったのだということを強く感じる。自然と共に生き、人々と共に生きる、いわば「俳句」的生活がそこにはあった。
電力依存度の低い生活がかつてあったことは、俳句などやっていない人も知っています。クーラーが「三種の神器」の1つとして日本の家庭に普及したのは、たかだか50年前。繰り返しますが、原発はたかだか50年の歴史なのです。

1960年代までの暮らしを、「自然と共に生き、人々と共に生きる」「「俳句」的生活」と呼んでいいのかどうか、私にはちょっとわかりません。

小野さんは続けます。
こういう風に書くと綺麗事のように聞こえるかも知れないが、そうではない。「自然」との共生、というのは単なるお題目ではなく、まさに俳句という作法の必須の核心として、いわばその根本を支える哲学として長く存在してきたものであることは、多くの俳人がすんなりと肯定してくれるはずだ。
常套句として、俳句と自然をセットにした物言いは、よく目にします。この場合の「自然」は「天然物」程度の意味と、私は捉えています。「「自然」との共生」が、俳句の「核心」「根本を支える哲学」であるという部分、間違ってはいないのでしょうが、常套句が常套句のまま、スローガンのように唱えられても、やや空疎な感じが漂います。

つまりは「「俳句」的生活」が、これからの指針になるということですが、では、具体的にどうすればいいのでしょう。

小野さんは、
火鉢と団扇の生活に戻れ、と言っているわけではない。
と言います。ここはいっそのこと「夏炉冬扇」の生活スタイルを提案してくれたほうが、まだしも、まともな反応がしやすいのですが……。「それは無理だろう」とか、「いや、一考の価値がある」とか。

戻らないとすれば、どうするか。
過度なエネルギー依存の生活を見直し、さらにはエネルギーに対する取り組みをもっと個人レベルでも高めるなど(例えば太陽光発電といったものを個人レベルでも多用する)、できることはあるだろう。
これが「見直し」の解答になるのでしょうか。こんなことなら、これまでいろんなところで言われっぱなしです。いわゆる「エコ」とか「ロハス」とか……。解決策になると、私は思いませんが、なるとしても、「俳句の美学」がこのことに寄与するとは思えません。

と、こう書いていくと、いちいちうるさいことを言っているようで、困った。まとめましょう。

小野さんの今回の記事に対する違和感を、手短にいえば、〔俳句と自然〕という手垢にまみれた常套的セットを、このタイミングで「絶対善」のように扱ってしまっている点です。

大量エネルギー消費を前提とした私たちの生活がこのままでいいのかという疑問は、なにも俳句など持ち出さなくても、多くの人が感じているはずです。

そこで、「俳句」は解決のヒントになると小野さんはお考えのようですが、あまりそう思えません。

加えるに、俳句的なるもの。これについて小野さんは確固とした把握をお持ちのようです。けれども、おそらく、私の把握とはずいぶん違う。例えば、私の考える「俳句的なるもの」は、「自然との共生」などというお題目を真に受けない態度です。「自然との共生」が悪いということではありません。中身が問題。

小野さんの記事には俳句関係の人たちに向かっても提言もあります。
我々は今こそ、「俳句」を取り戻すべきだ。そしてそれは誤解のないように言っておくが、決して旧来的な俳句を墨守せよ、と言っているのではない。我々の生活が火鉢と団扇の生活は戻れないように、我々の俳句も子規や虚子には戻らない。だが、俳句的な哲学を生かして今の時代に合わせて再デザインすることはできるはずだ。
ざっくりとした書き方は、紙幅の関係からしかたのないこととしても、これを読んで何をすればいいか、どう考えればいいかがわかる俳人/俳句愛好者はごくわずかではないしょうか。

ひとつには、小野さんは、「俳句」総体として、万人に理解可能な共通の「哲学」「美学」がある、と信じすぎていないかということがあります。げんに小野さんの考える「俳句的」と私の考える「俳句的」は大きく違う。

「俳句」「俳句的」「自然との共生」その他もろもろ、ざっくりスローガンとして掲げて、人に伝わることは少ないように思います。

「エネルギー消費を抑えたライフスタイル」へのシフトが必要だと、多くの人が思っているはずです。私も思います。いま東京の街を歩いて思うことは、「これまでムダに明るすぎたんじゃないの?」ということです。エネルギー政策についても議論が沸騰すること確実です。

そのとき、俳句の「哲学」「美学」が有効だと考える小野さんと、そんなふわふわとして訳のわからないものは、スローガンとしてさえ、あまり役に立たないと考える私。その違いは、ぞんがい大きいかもしれません。

「俳句的思考」のようなものが、生活様式のシフトに貢献することはあり得る。しかし、それには、もっと細かくていねいな作業の積み重ね(簡単に言えば、俳句の自然観って何? 自然との共生ってどんな?という検証の積み重ね)が必要です。それが結果として、ゆっくりじわじわと効果を及ぼすということはあり得ます(楽観的ですが)。

だから、小野さんのこの記事を、好意的に解釈すれば、私の言う「作業の積み重ね」の第一歩と言えるかもしれません。しかし、それにしては、あまりに空疎にスローガンが打ち振られるだけではないか、という印象です。



小野さんの記事を読んだとき私を包み込んだ違和感。その主なところは以上ですが、付随的な箇所への違和感も数多い。むしろ、こちらのほうが多くの読者にひっかかるかもしれません。つまり、感情的な反発を呼びやすい。これは小野さんの書き方が迂闊なのか、あるいは思考そのものが迂闊なのか。

そちらにも簡単に触れておきます。そちらのことには首肯していると誤解されないために。

まず、石原都知事の「天罰」発言を引いて、論を展開した点(小野さんは「某氏」などという、いやらしい書き方をされています)。これは、多くの読者の反発を呼ぶはずです。
「天罰」なんてとんでもない、と思う。けれどもその一方で、新聞などの報道によれば今回の災害に乗じた「義援金詐欺」なども起きているという。それが本当だとしたら悲しいことだし、「天罰」と言われることを批判する資格が今の日本人に本当にあるのだろうか、といった思いも過ぎらないわけではない。
これでは「天罰発言にも一理ある」と受け取られてしまいます。

「天罰」という思考の愚劣さの最たるところは、罰する対象を「天」ではなく「天罰」を口にする人間が決めていることです。簡単に言えば、石原氏の気に入らないことが罰される。「天」はダシに使われる。

そんなものに乗っかってどうする?という話ですが、さらに小野さんは、「義援金詐欺」を悲しむ。世の中に悪人がひとりもいないと思っていらっしゃるのでしょうか。ふだん振り込め詐欺を働く人間も、大災害となれば、日本人として心を一つに、善人に生まれ変わるとでも言うのでしょうか。ミッションスクールに通う深窓の令嬢のような口ぶりです。

次に、「俳句に見られるまさに“骨の髄までの平和主義”」という点。

俳句がそうだとはまったく思えませんが、それは置いておきます。一万歩くらい譲って、俳句がそうだとしても、領土問題を他国に全面委任すること、防衛という課題の放棄、これらを「俳句の平和主義」の観点から主張されたりしたら、たまりません。

もしも「俳句」が平和主義をふりかざして、こんなことを言ってきたら、私なら、「俳句よ、頼むから、黙っておとなしく、そのへんに坐っていてくれないか」と言います。



小野さんは、3月11日以来のこの事態に、俳句に何ができるかを考え、建設的な意見として、今回の記事を書かれたのだと思います。いわば、小野さんの善意が、この記事を書かせた。

「大いに賛同」という人もいるでしょう。しかし、この内容では、多くの反発を招くと思います。もちろん、私とはまったく別の角度での反論もあるでしょう。



俳句愛好者が、俳人が、いま何ができるかを考えることは大切です(社会人として何ができるかのほうがさらに大切と思いますが)。そのうえで、俳句は何もしないという選択だってあると思います。

暢気に俳句をつくりつづけるという選択。その「暢気さ」が社会に大きな役割を果たさないとも限らない。少なくとも〔俳句=自然との共生〕という、ふわふわとして無内容な、しかしそれだけに通りのいい美辞麗句よりも、暢気さのほうがよほどマシと、私は思っているのです。

3 件のコメント:

小野裕三 さんのコメント...

天気様 「ウラハイ」にてご丁寧に取り上げていただき、ありがとうございました。ひとつひとつ、ごもっともと思い拝見いたしました。ご指摘のとおり、今回書いた内容は、現実離れして、具体性もありません。というのも、今回のものは、この絶望的な状況だからこそ書こうと思った私にとっての「理想論」なのです。私の思いは、書いていただいたとおり、

≪「俳句的思考」のようなものが、生活様式のシフトに貢献することはあり得る。しかし、それには、もっと細かくていねいな作業の積み重ね(簡単に言えば、俳句の自然観って何? 自然との共生ってどんな?という検証の積み重ね)が必要です。それが結果として、ゆっくりじわじわと効果を及ぼすということはあり得ます(楽観的ですが)。≫

ということに尽きます。理想論で楽観論であることは重々承知の上で、それでもこの困難な状況に対してそこから一筋の光が射すことはないのだろうか、と思った次第です。
また、私の文章が少なからぬ方の心情を害したとしたら、それは私の軽率な思慮不足によるものであり、その部分についてはここに心よりお詫び申し上げます。

島田牙城 さんのコメント...

牙城です。
こんにちは。
僕もツイッターで少し書いちゃって、場所が違うだろって後ろめたく、申し訳なく思っているのですが、考えるきっかけを与えて下さり、感謝しています。
俳句との向き合い方を、それぞれがゆっくりじっくり考えていけるといいですね。

小野裕三 さんのコメント...

牙城様 あたたかいコメント、ありがとうございました。いたらない点の多い文章だったと思いますが、何かの「きっかけ」になれば幸いです。そして、こんな時だからこそ、たとえどんなことであってもお互いにあたたかい言葉を掛けあうのは、やはりいいことですね。私も日々そのように努力したいと思います。
なお、私の文章中に書いた「不安」は、それから一週間経って残念ながらかなり現実的なものとなったようです。もとより東北の方々の大変な苦労が続いている状況ですが、それに加えて私の住む関東などの広い地域でも放射能の見えない恐怖が広がっています。特に、幼児を抱える多くの「お母さん」たちが今、大きな不安と苦労に直面しています。多くの家庭が一日も早く「笑顔」を取り戻すことを、本当に心から願います。
そして、被災や停電による日本経済への影響が深刻化するなど、心配なことはいろいろあります。正直なところ、私もどちらかというと本当はのんきに俳句を作っていたいというほうなのですが、東北のことに加えて、広い範囲で環境は破壊されるわ、経済は破壊されるわ、でとてもとてもそんな気分にはなかなかなりません。とにかく、このまま日本が絶望的な「冬の時代」に突入しないことを祈るばかりです。