2008年11月17日月曜日

●マイルスのリズム 中嶋憲武


マイルスのリズム

中嶋憲武



ヤマモトさんの部屋で目覚める。

夕べは、ヤマモト夫妻に歓待され、とてもご機嫌であったのだ。酒も飲まないのに、ひどく有頂天な気分になってしまい、そのまま眠ってしまったらしい。

昼に近い朝の、小さなバルコニーから入ってくる小春の風が快い。眠っても眠っても眠り足りないような感じであったのだが、パンを買って公園で食べようということになり、ヤマモト夫妻とぼくと三人そろって繰り出す。

いきつけという小さなパン屋で、数種類のパンを買い、駅の近くの公園へ行く。この公園の公衆便所に寝泊まりしている、ハタチくらいの女性がいるという話をヤマモトさんから聞いていたので、好奇心も野次馬根性も手伝って、何気ない風を装って公衆便所を覗いてみると、くだんの女性の影もかたちもなかった。

ヤマモト夫妻のベンチへ戻ってみると、ヤマモトさんに「いたのか」と聞かれたので、図星を差されたかたちになり、「いなかったです」と口を尖らせた。

ベンチのテーブルに、ジュースや牛乳、パンが並び、黄金の日差しだ。黄金のうたた寝でもしたい。ヤマモトさんが、「俺は牛乳なんか飲みたくねえんだよお。ああ、白ワインでもありゃあ、最高なんだが」と言うと、ヤマモトさんの細君はぴしゃりと「駄目です」と言った。この細君は家では何もせず、ヤマモトさんの体調管理ばかりに精を出している。ヤマモトさんは、毎朝毎晩、細君のために食事を饗応していて、ごく稀に用事かなにかで、食事を作れなかったりすると、細君の怒髪は勢いよく天を衝くそうなのだ。

ぼくは、しずかに「もちもちクロックムッシュ」を咀嚼していた。

部屋へ帰ると、二時に近かった。夕方に、細君の友人が訪ねてくるそうで、細君はこれからすこし寝て、部屋の掃除しておきますと言って、ベッドに寝転がった。ぼくも寝たい気分であったが、ヤマモトさんが散歩でもしてくるか、と言うので、また散歩ですかと思いつつ従った。

ヤマモトさんと、むかし学生のころよく歩いた高円寺の商店街を抜けて、阿佐ヶ谷へ向かった。阿佐ヶ谷の町へ入ると、高円寺とはまたすこし雰囲気が変わった。古本屋が多いのは共通しているのだけど、すこし大人びている感じがする。東京の面白さは、ひと駅ごとに町の表情が変わるところかもしれない。

ヤマモトさんが、釣り堀を知っているかと尋ねるので、知りませんと言うと、連れてってくれた。高架線に近いところに、その釣り堀はあって、ヤマモトさんは係のおじさんに、「ちょっと見せてもらっていいですか」と言って、ずんずん入って行った。たくさんの老若男女が釣り糸を垂れていた。ぼくとヤマモトさんは、俄釣り師たちを眺めていて、最後まで釣り糸を垂れる事も無く、ありがとうございましたとさっきのおじさんに言って、釣り堀を後にした。

歩いていると、道のまんなかにひよどりが、仰向けになって死んでいた。ヤマモトさんは、ひよどりの足をつまむと、傍らの街路樹の根元へそっと置いた。

高円寺まで戻り、「公園に行くか」とヤマモトさんが言うので、さっきの公園かと思っていると、方角が違う。住所は高円寺北になっているが、いままで見た事も無い高円寺だった。途中のコンビニエンスストアーで、「内緒だよ」と言って、缶ビールをひと缶買い、ぼくは飲めぬのでウーロン茶を買った。

「この公園は、むかし気象台の研究所だったんだ」とヤマモトさんは言って入って行った。話を聞くと、ヤマモトさんの父上が勤めてらして、研究所に併設されている寮に住んでいらしたのだとか。研究棟は跡形も無いが、いまでも寮の建物は残っていて、団地として使われているらしい。「この窓が、親父の部屋」と言って、さり気なく窓を指差した。

公園には、水の流れているところがあって、子供が水を何度も汲みに来て、その度に大袈裟に水のなかに倒れ込んだり、ばしゃばしゃと踏み荒らしたりして、傍のベンチに座っているアベックの方へ水が掛かりそうになり、アベックの男は、女の方へ身を傾けて避けたりしていて、迷惑しているのか、楽しんでいるのか、どちらだろうかと考えていると、ヤマモトさんが缶ビールのプルトップを開ける音がした。

からすが来て水浴びをしていたり、ふたりの女の子を連れたおじいさんが、流れの前の白っぽいコンクリートに、水でいくつもの大小の円を描き、女の子がけんけんぱをしていたりするのを、眺めているうちに、太陽がだいぶ傾いた。

ヤマモトさんは、ベンチからちょっと腰を浮かすと、長い放屁をした。「長いですね」と言うと、放屁は得意なのだそうで、マイルス・デイビスのリズムだって刻むことが出来るんだ、と言った。

ぼくとヤマモトさんは、ベンチから立ち上がって、もと来た道へ出た。道すがら、ヤマモトさんは「まだ寝てるかもしれないな」と独り言のように言った。

ふたたび、部屋へ戻ると、ヤマモトさんの言った通り、細君は気持ち良さそうに寝ていた。

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