「なにか」
宮﨑玲奈
先週は、週末に金沢に行ったり、ちょっと忙しくしていた関係で、書く時間がなく、おじゃんになってしまいました。すみません。
先々週は、ぼんやり浮かんだ、俳句とか短歌(的なものと言いたい)も、そっと、載っけてみたのですが、これは、宮﨑莉々香が一番イヤだと思っていたタイプのことなのかもしれないなーというようなことを、ふと、思い返していました。最近、宮﨑莉々香の話を聞かれたのもあって、思い出していました。なんだか、しだいに、彼女が、今の自分とはかなり遠い、他人のように思えてきました。けれど、案外、人間というものは、過去の自分が遠い他人のように思えてくる生き物なのかもしれません。
宮﨑莉々香という人は、(たぶん)割と普遍的なモチーフを用いて、文体で勝負するタイプの人で、内容(意味)によって文化背景がわかる、例えば、この人は主婦で、だからこの素材を使った、とか、その人はひっそり暮らしていたけれど、俳句を趣味で続けていて、それをノートにひっそりと書き残していた、みたいなことがすごく好かん!って、なっていたと思われます。俳句は言葉で、文体だし、俳句作家の仕事は、やっぱり、文体で書くってことにある気がしていた。
けれど、次第に、書きたいと思うことが出てきて、見えている世界だけでなく、今、この社会に生きているということを含めて、書こうとすると、俳句という形式がすごく短すぎるように思えてきて、これまで作家として書いてきたこと、書こうとしてきたことと、書きたいと思ったことは、すごく離れているように思って、途端に、俳句が書けなくなってしまった。俳句に関することで嫌だなー、辞めたいと思ったことはあったけど、俳句が嫌いになったことはなかったので、ちょっとショックでした。俳句が切り取る世界への、物足りなさと絶望感を感じていたのだと思います。
演劇や戯曲という表現手段を得て、最近になって、やっと、自分が演劇でやっていることが、過去に宮﨑莉々香が俳句でやっていたこととも、ちょっとつながってくるようになりました。主には、「わからない」ということに対しての捉え方や、物の見方な気がしています。両面、またはそれ以上の多面的な方向から、物事を捉えた時に、「わかっていた」と思っていたことの地盤がぐらついて、わからなくなってくることの方に興味がある。それは、例えば、チューリップを見ていたとして、チューリップがどんどんわからなくなる、みたいなことと似ていると思います。
もう、前のような、宮﨑莉々香にはなれないけれど、ほそぼそと、趣味として、俳句をたまに思い浮かんだ時に書いて、1年に1回くらいだったら、連作にできるのかもしれない、そんな感じです。というのが、宮﨑莉々香氏に関する近況でした。
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