〔中嶋憲武まつり・第11日〕
忘れじのデミグラスソース
中嶋憲武
なぜかこのところ、昔よく食べたあの味を思い出してしまって、久しぶりに食べに行こうかと思った。
それは5年ほど前、勤めていた会社の近くの洋食屋のU定食だ。
ハンバーグの上にチーズ、その上に半熟の目玉焼きが乗っていて、ポークビーンズと温野菜が添えてある。このポークビーンズがまた絶品で。ポタージュスープとライスが付いて1500円。
目玉焼きの上からナイフを入れると、黄身がとろ~りと滲み出す。肉汁もジュワッとして、黄身と肉、肉汁とチーズとデミグラスソースの渾然一体となったものをナイフとフォークで支え持つと、いい香り。
ここまで夢想して、その夜、仕事が終ってから行ってみた。
銀座一丁目の煉瓦亭。この店はごく狭い。一階のカウンターは5人も座れば一杯になってしまう。二階へ通され、二階もカウンターとちょっとした椅子席のみ。カウンターに座って、メニューを渡され眺めてみたが、お目当てのU定食はない。ABCDと来て、なぜかいきなり飛んでU定食なのだが、それが無い。
カウンターのなかの女性に「あの、U定食やってます?」と聞くと、女性は一瞬きょとんとして、それから「ああ、懐かしい!やってましたよね」
と言うので、今はやってないのかと思い、記憶を呼び覚ますように「ハンバーグの上にポークビーンズとか乗ってる、あれ」と言うと、「そうそう、うちじゃ、やってなかったけど、新富町のほうの店ならやってるかもしれないので、聞いてみます」と電話して聞いてくれた。
たしかに新富町の店では、今でもやっていた。昔の会社の近くの店は、新富町の店なのだから、最初からこっちへ来ればよかったのである。何を血迷って銀座一丁目へ行ってしまったものか。店へ入るとお客さんがひとりだけで、オムライスを食べていた。
カウンターへ座って、厨房の人と目が合うと、厨房の人はぼくを覚えてくれていたらしく、二人とも「あれ?」と言った顔つきになってから、「今晩は。久しぶりですね」と言った。「いや、今ね、急にU定食のポークビーンズが食べたくなって、銀座へ行ったら無くて、新富町ならあるっていうんでこっちへ来たんですよ」と言うと、U定食はあるけれど、ポークビーンズは載せていないのだと言う。
「ええ?ポークビーンズを食べたかったんだけど」
「すみません。せっかく来て戴いたのに。目玉焼きとチーズはそのままです」
「じゃ、Uで」と、多少がっかりして注文した。会計の奥さんも変っていない。水とおしぼりと夕刊を持って来てくれた。
夕刊を読みながら待っていると、ポタージュが出た。一口飲む。ジャガイモの味のポタージュ。相変わらずの美味しさ。なんだか安心する。お待ちかねのハンバーグが来て、ナイフを入れると懐かしいあの匂い。黄身のとろりとした感じもよし。たっぷりとデミグラスソースが掛かっている一片を口に運ぶと、えも言われぬ心地。食事しながら、厨房のコックさんと話す。先ほど、オムライスを食べていた人は、食べ終わって店を出て行ったので、客はぼく一人になった。
「しばらくですね」
「勤めが浅草の方になっちゃったんで、足が遠退いてしまって」
「浅草なんですか。あの辺も洋食屋さんたくさんありますよね。大宮とかヨシカミとか」
「浅草ではヨシカミにしか入ったことないですね」
「ぼくも行きましたよ」
「おっ。研究ですね」
会社で会議の時は、この煉瓦亭からよく洋食弁当を取っていたものである。その頃の話をすると、今ではあまり取ってくれなくなったらしい。経費節約なのだろう。会長や経理の人は今でもときどきランチを食べに来るそうで、今日も会長がやって来たらしい。シーフードカレーを注文したとか。ここのシーフードカレー、辛くて美味しかったんだった。
食べ終わって、
「ごちそうさま。美味しかったです。ここのデミグラスソースの味を思い出して、どうしても来たくなったんです」と言うと、コックさん二人はにこにことして、
「また来てください」と言った。
幸せな気分で家路に着き、真っ暗な部屋に帰って、電気を点けると待っていたかのように冷蔵庫が、ぶーんと唸り出した。
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2009年4月22日水曜日
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