先ごろ、この年末年始に相応しく、大晦日を舞台とした『世間胸算用』の、その新しい現代語訳が刊行されました。
近世文学研究者にして時代小説家の中嶋隆氏によるものです。
すでに氏には光文社・古典新訳文庫『好色一代男』があり、今回は西鶴訳の第二弾となります。
むろん今回も目から鱗の解説文で、例をあげると――
〈大晦日は、商人すべてが体験する収支決算日であり、一年間の商業活動が集約される日でもあった。全短編の時間設定を大晦日に統一するという仕掛けは、前例のない西鶴の独創的趣向である。/この趣向は重要な意味をもった。なぜなら、貧乏人がどうして落ちぶれたか、また年が明けてからどう生活するのか、ということを書く必要がないからである。つまり大晦日一日の時間だけが切り取られていて、その前後が書かれていない。したがって、読者はその部分を想像力で補わなければならない。〉
中島氏は〈書かれていることより、書かれていないことのほうが読者の想像力をかき立てる場合が多い〉とも述べており、この省略技法を「空白のコンテクスト」と呼んでいます。
たぶんこの「空白のコンテクスト」のルーツをたどると、俳諧の「抜け」に行き着くのではないでしょうか。
これは*番外編17でも述べたことですが、談林の「抜け」を否定的媒介とし、内容主義的な「省略」へとアウフヘーベンした結果、芭蕉の『炭俵』や西鶴の『胸算用』の世界がひらかれた、というのが愚生の見立てです。
〈大晦日は商人すべてに関わる「一日千金」の重要な日なので、読者は作品に描かれた状況に共感しやすいという面もあった。〉
この「省略」と「共感」の関係性は、やはり芭蕉の「軽み」にも通底するように思われてなりません。
大晦日定めなき世のさだめ哉 鶴翁
定めなき無常の浮世にあって、人間がさだめた大晦日の総決算、その悲喜こもごもの話に共感を覚えない読者は少なかったことでしょう。